日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビシー政権」の意味・わかりやすい解説
ビシー政権
びしーせいけん
ナチス・ドイツによるフランスの敗北を契機として、1940年7月、中部フランスの温泉保養地ビシーVichyを臨時の政府所在地として成立したフランスの政権。正式には「エタ・フランセÉtat Français(フランス国家)」と称した。「ベルダンの英雄」として国民の圧倒的尊敬の的であり、前内閣の副首相でもあったペタン老元帥に上下両院合同会議が統治権を委任するという形式をとって成立したため、いちおうの合法性を備えていた。そのため、米ソ両国を含む列国から正統政府の扱いを受けたが、フランスの国土の約5分の3を占めるドイツ軍占領地帯にはその統治が及ばず、外からはドゴール将軍の自由フランス運動の挑戦を受けた。政府は、対ドイツ敗戦の原因とされた第三共和政の不人気を利用して、「自由・平等・友愛」にかわる「労働・家族・祖国」の新スローガンを掲げ、権威主義的な「国民革命」の実現を唱えたが、内実は、人民戦線時代の左翼支配に対する保守派の反撃にほかならなかった。内部では、対ドイツ協力の是非をめぐって、積極派のラバル首相らと日和見(ひよりみ)的なペタン国家主席らとの対立があったが、ドイツの圧迫の強化とともに協力政策の実行を余儀なくされ、レジスタンス勢力との内戦を招いた。1944年8月、連合国によるフランス解放とともに政府は消滅し、戦後ペタン以下の関係者は、死刑を含む厳しい処罰を受けた。
[平瀬徹也]
『アンリ・ミシェル著、長谷川公昭訳『ヴィシー政権』(白水社・文庫クセジュ)』