改訂新版 世界大百科事典 「えた」の意味・わかりやすい解説
えた
江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり,幕府の身分統制策の強化によって17世紀後半から18世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。1871年(明治4)8月28日,明治新政府は〈太政官布告〉を発して,〈非人(ひにん)〉の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし,被差別部落への根強い偏見,きびしい差別は残存しつづけたために,現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち,差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では〈穢多〉と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,〈えた〉の語,ならびに〈穢多〉の表記の例は江戸時代以前,中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。〈えた〉の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(1264-88)に成立したとみられる辞書《塵袋(ちりぶくろ)》の記事が名高い。それによると〈一,キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多〉とあり,おもに清掃を任務・生業とした人々である〈キヨメ〉が〈エタ〉と称されていたことがわかる。また,ここでは〈エタ=穢多〉とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので,特別の疑問ももたれなかったが,末尾の〈穢多〉の2字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので,この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。〈えた〉が明確に〈穢多〉と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(1293-99)の成立とみられる絵巻物《天狗草紙》の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり,〈穢多〉〈穢多童〉の表記がみえている。これ以降,中世をつうじて〈えた〉〈えんた〉〈えった〉等の語が各種の文献にしきりにあらわれ,これに〈穢多〉の漢字が充当されるのが一般的になった。この〈えた〉の語そのものは,ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され,また〈穢多〉の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが,両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し,各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。〈えた〉の語源は明確ではない。前出の《塵袋》では,鷹や猟犬の餌肉の採取・確保に従事した〈餌取(えとり)〉の称が転訛し略称されたと説いているので,これがほぼ定説となってきたが,民俗学・国語学からの異見・批判もあり,なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に,〈えた〉がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし,ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり,日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし,〈えた〉の語に〈穢多〉の漢字が充当されたこと,その表記がしだいに流布していったことは,〈えた〉が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず,〈えた〉自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し,差別の固定化に少なからず働いたと考えられる。
→被差別部落
執筆者:横井 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報