日本大百科全書(ニッポニカ) 「ファシスト党」の意味・わかりやすい解説
ファシスト党
ふぁしすととう
Partito Nazionale Fascista イタリア語
イタリアの政党(1921~43)。正式には「国民ファシスト党」のことで、第二次世界大戦末期の「共和国ファシスト党」を含まない。この党は、第一次世界大戦への参戦運動の継承と普及、すなわち戦争への国民総動員を目ざし、全体主義的独裁の核となった。
[重岡保郎]
「戦闘ファッショ」からファシスト党へ
1919年3月に結成された最初のファシズム団体「戦闘ファッショ」は、反政党、反議会政治を目ざすとともに加盟者の自発的運動そのものを目ざした。この加盟者が20年末の約2万人から翌年末の約25万人に飛躍的に増加したのは、ポー川流域への農村ファシズムの登場によるもので、彼らは、ムッソリーニの統制を超える自立的勢力として地元の農業資本家や地主から財政的援助を受けていた。このような勢力を統制する手段として、ムッソリーニが考えたのが党の結成である。他方、農村ファシズムの指導者たちにとっても、政権奪取のためにはムッソリーニの中央における政治活動を必要とした。党は、ムッソリーニと地方ボスの妥協の産物であった。21年11月の「戦闘ファッショ」第3回大会で、国民ファシスト党が誕生した。大会は、党の指導機関を選出し、地方連合支部などの下部機関への指導体制を定めたが、下部機関の自主性が強く、中央の集権能力はきわめて限られていたので、党は自立的な地方組織の連合体にすぎなかった。この党を他の伝統的政党から区別するものは、武装された党という点であり、合法と非合法の両面にまたがるその活動形態であった。
[重岡保郎]
ローマ進軍以後
このような党勢力を背景に、ムッソリーニは地方権力をしだいに確保しながら、議会内外の政治取引を通じて権力への接近を模索する。1922年10月のナポリ大会のあと、党は「ローマ進軍」を組織した。同月28日、国王はファクタ首相の提出した戒厳令署名に応じないで、翌日ムッソリーニを首相に任命した。ムッソリーニは、組閣後まもなくファシズム大評議会と国防義勇軍の創設を党に命じた。前者は、党の最高機関として制定され、指導部人事を選挙制から任命制に変える役割を果たし、後者は、アナーキーになりがちな武装行動隊を党に服従する軍隊として再編成したものである。とくに前者の半国家的性格により、これらの機関制定は党と国家の対立を党内に引き起こした。23年以後長年にわたって、ファリナッチRoberto Farinacci(1892―1945)に代表される非妥協派と、ロッコAlfredo Rocco(1875―1935)やボッターイGiuseppe Bottai(1895―1959)、あるいはナショナリストといった異質の集団からなる穏健派との間に主導権争いが生じた。非妥協派は、ファシズム革命推進のために自立的な党とスクワドリズモ(武装行動主義)の必要性を主張し、穏健派は、国家のなかに党を吸収してテロリズム(武装行動主義)に終止符を打つことを求めた。ムッソリーニは最初、後者の側にたって前者を抑えようとしたが、その後、前者に助けられて独裁の樹立を決心するようになる。
[重岡保郎]
ファシズム体制期
1925年2月に党書記長に任命されたファリナッチは、強権を振るって異端分子を排除し、軍事的規律に基づく中央集権党の建設に着手した。しかし、彼の党はムッソリーニからの自治を目ざしたから、1年後にファリナッチは解任された。26年から31年にかけて非妥協派は追放され、党の政治的自治は否定され、国家への党の従属が確立された。26年の党規約は、党内の選挙制をすべて廃止し、大評議会に党の指導機能を与え、党とファシズムの最高首脳としてのムッソリーニの地位を決定した。その後の規約改定は、この方向をさらに強めた。全体主義的局面を代表したスタラーチェAchille Starace(1889―1945)書記長の時代(1932~39)に、党は国家のために大衆の同意と支持を吸い上げる毛管組織になり、宣伝・教化の機能に専念することになった。党員数は30年の約100万から39年の263万に増大、著しく肥大化して大衆党となったが、党は非政治化あるいは儀式化と官僚主義化を強めるとともに、ムッソリーニの個人独裁の道具の性格を強めたため、体制のエリート育成にも無能力であった。43年7月ファシズム大評議会でムッソリーニの不信任が可決され、バドリオ政権によりファシスト党は解散させられた。
[重岡保郎]
『ファシズム研究会編『戦士の革命・生産者の国家』(1985・太陽出版)』