フガード(英語表記)Fugard, Athol

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フガード
Fugard, Athol

[生]1932.6.11. 南アフリカ連邦,ミドルバーグ
南アフリカ共和国の劇作家,映画監督,俳優。フルネーム Athol Harold Lannigan Fugard。父はイギリス系,母はオランダ系の白人。ポートエリザベスで学んだのち,1950年から 2年間ケープタウン大学で社会学と文化人類学を学んで中退。のち船員として東洋を周航。短期間のうちに職を転々としたが,その間に創作活動を始めた。帰国後,南アフリカ放送局や裁判所に勤め,1957年女優のシェイラ・メアリングと結婚。劇団を組織し,演劇に没頭する。のち国立演劇機構の舞台監督を務め,欧米,アフリカ諸国を歴訪。アパルトヘイトをテーマとする実験演劇に取り組むなど精力的に活動した。戯曲に『血の絆』The Blood Knot(1963),『シズウェ・バンシは死んだ』Sizwe Bansi Is Dead(1974),『メッカへの道』The Road to Mecca(1985)など。映画台本も多い。(→アフリカ文学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フガード
ふがーど
Athol Fugard
(1932― )

南アフリカ共和国の白人劇作家、俳優、演出家、映画監督。旧ケープ州ミドルバーグ(現東ケープ州)に生まれ、1932年ポート・エリザベスに移住。父はイギリス人でジャズ・ピアニスト。母はアフリカーナー(オランダ系)。病身の父にかわって母が喫茶店を経営して家計を支えた。店の手伝いをしながら人種差別の実態を知る。46年地元の工業専門学校で自動車整備士の資格を取り、50年にケープ・タウン大学で社会科学と社会人類学を学んだ。のち船員となり2年間東洋を周航し、これがさまざまな人種と接する貴重な体験となった。その間に創作を始め、帰国後、南アフリカ放送局に勤めケープ・タウンに移住。大学時代の同窓で女優のシェイラ・メアリングと再会、57年に結婚、夫婦ともう一人の女優を加えて劇団サークル・プレイヤーズを組織し、演劇の世界にのめり込んでいった。58年ヨハネスバーグに移住。同年、当時黒人文化のメッカといわれた非白人居住区ソフィアタウンの黒人芸術家たちと接触、人種差別に苦しむ都市黒人の実態にふれ、その後のアパルトヘイトをテーマとする実験演劇の仕事に取り組む転機となった。のち国立演劇機構(NTO)の舞台監督を務め、ヨーロッパ、アメリカ、ザンビアなどを歴訪、活発な演劇活動を展開し、81年ナタール大学から名誉文学博士号を授与された。ほかに、多数の映画賞、演劇賞を受賞。戯曲に『血のつながり』(1961初演。1963刊)、71年オビ賞を受賞した『ボーズマンとレナ』(1969初演刊)や『こんにちは、さようなら』(1965初演。1966刊)、『人びとはそこで生きている』(1968初演。1969刊)、『背徳法で逮捕されたのちの声明』(1972初演。1975刊)、『島』(1972初演。1974刊)、『アロエからの教訓』(1978初演。1981刊)、『メッカへの道』(1984)などがある。なおニューヨークのブロードウェーで大評判だった『シズウェ・パンジーは死んだ』(1972初演。1974刊)は、87年『こんな話』という題で地人会の手で日本でも初上演された。ほかに小説『ツォツィ』(1980)を出版。アパルトヘイト廃棄後の戯曲には『わが子どもたち!わがアフリカ!』(1990)と廃棄後の現実に対応する世代間(祖父と孫娘)のずれをテーマにした『谷間の歌』(1996)がある。[土屋 哲]
『福田逸訳『谷間の歌――バーニィー・サイモンの想い出に捧ぐ』(1999・而立書房)』

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