アメリカのブルース歌手、作曲家、ギタリスト。生年については1920年という説もある。
ミシシッピ州北東クラークスデール近くに生まれる。義理の父ウィル・ムーアWill Mooreはギター弾きで、家には知り合いだった著名なミュージシャン、ブラインド・レモン・ジェファソン、ブラインド・ブレークBlind Blake(1895―1937)、チャーリー・パットンらが訪れていたし、また同郷のギタリスト、トニー・ホリンズTony Hollins(1900―59)らにも感化されて育つ。しかしフッカーは田舎の生活になじめず、メンフィスやシンシナティを経て1943年にはデトロイトへ出て、最大の黒人歓楽街ヘースティングズ・ストリートで歌うようになる。
48年地元の音楽プロデューサー、バーニー・ベスマンBernie Besmanのもとでレコーディングを開始。ロサンゼルスのモダン・レーベルからシングル「サリー・メイ」「ブギ・チレン」を発表。特に後者の、ギター1本で弾き歌う独自のブギ・ウギは、第二次世界大戦後、南部の田舎から北部の都市やってきたばかりの聴衆にもっとも好まれ、センセーションを呼んだ。フット・ストンピング(足の踏みならし)が重くビートを刻むスロー・ブルースは、はらわたから出るようなヘビーなうなり声で他の追随を許さない独自の境地を築き、戦後現れた最高のブルースマンとして際立った存在となった。同レーベルからは「ホウボー・ブルース」、ホリンズの曲である「クロウリング・キング・スネイク」、また「アイム・イン・ザ・ムード」といった大ヒットを飛ばした(いずれも『ザ・グレート・ジョン・リー・フッカー』The Great John Lee Hooker(1963)に収録)。
40年代終わりから50年代初めにかけては、キング、チェスといった比較的大手からスペシャルティ、スタッフ、ダンスランドに至るさまざまレーベルに、テキサス・スリム、ジョン・リー・ブッカー、ジョニー・ウィリアムズ、バーミングハム・サム、リトル・ポークチョップといった偽名、変名を使って、専属契約などどこ吹く風とばかりにレコーディングをする。それらはいずれも水準が非常に高く、エレクトリック楽器を使ったカントリー・ブルースの極致をも示した。そうした無軌道ぶりは55年のシカゴのビージェイ・レーベルとの契約で終止符が打たれ、バンド形式の活動に移行していく。
また、リズム・アンド・ブルース・マーケットとは別に、フォーク・ソングを経て黒人ブルースへ向けられた関心により、フッカーは58年にフォーク・ブルース・アーティストとしてリバーサイドでアルバムを録音し、それを機にブルース、フォーク両面で活動していく。前者では「ブーン・ブーン」(『バーニン』Burnin'(1962)に収録)の大ヒットが生まれた。60年代に入るとアニマルズやヤードバーズといったブリティッシュ・ロック・グループに賞賛され、特に「ブーン・ブーン」のアニマルズによるカバーは大ヒットした。この結果「オリジナルのブルースマンのものより売れてしまう、ロック・グループによるカバー」という図式の成立により、ブルースの急速な一般化がもたらされた。
ブルースへの関心が黒人以外にも広がる60年代中期にフッカーはインパルス、チェス、ブルースウェイといったレーベルからつぎつぎにアルバムを発表する。ホワイト・ブルース・グループのキャンド・ヒートと共演した『フッカーン・ヒート』Hooker'n Heat(1970)は、フッカーのブギ・ウギ・ビートが展開され、ヒット・アルバムとなった。日本ではこのアルバムでフッカーの存在を知ったロック・ファンが多い。これ以降、ロック・ミュージシャンとの共演も増え、ブルースの魅力を一般ファンにも伝えた映画『ブルース・ブラザーズ』(1980)にもストリート・シンガー役で登場、84年(昭和59)には来日も果たした。
『ヒーラー』Healer(1989)を経て90年代にはEMI系メジャー・レーベルのポイント・ブランクからもアルバムを発表、ヒップな老黒人ブルースマンといったイメージでそれまでにないファン層もつかんだ。MTV時代に十分アピールのできる伝統的ブルースマンとして、生涯を通じて出したアルバムも100枚以上に達し、晩年までブルースが古くて新しい音楽であることをアピールした。
[日暮泰文]
『Charles MurrayBoogie Man; The Adventures of John Lee Hooker in the American 20th Century(2000, St. Martin's Press, New York)』
イギリスの植物地理学者。サフォーク県ヘールズワースに生まれる。父のウィリアムSir William Jackson Hooker(1785―1865)はキュー植物園長を務めた。1839年グラスゴー大学で医学博士の学位を得たのち、ロスの南氷洋探検隊に副外科医として参加。のち、インド北部の辺境地方への探検旅行を行った。著書は『南極地方植物誌』Flora Antarctica(1844~1847)その他がある。『種の起原』の著者ダーウィンは、フッカーを「私の生涯を通じて最良の友の一人」とよんで深く信頼した。フッカーはライエルといっしょに、渋るダーウィンを励まして彼の主著の出版を決行させた。また、ハクスリーとともに、進化論的哲学者スペンサーに生物学上のアドバイスを与えた。後年、父を継いでキュー植物園長に就任した。
[渋谷寿夫]
イギリスの神学者。オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジを卒業後、1577年同カレッジのフェローとなる。1585年ピューリタンの対立候補を抑えてテンプル教会の牧師(マスター)に選任された。1591年にその職を離れてのち、イギリス国教会を擁護する『教会統治法論』8巻の著述に専念し、1600年11月2日カンタベリー近郊で没した。『教会統治法論』はピューリタニズムとカトリシズムに対抗して、国教会の正統性を、聖書、キリスト教会の伝統、理性に基づいて主張したものだが、そこに集成された当時の自然法論と立憲的政治論は、ロックらに影響を与え、思想史上重要な位置を占めている。また散文としての評価も高い。
[金井和子]
イギリスの植物学者。父は植物学者W.J.フッカー(1785-1865)で,その大きな影響をうけた。グラスゴー大学で医学の学位を取得。ロスJ.C.Rossの南極探検に,軍医補兼博物学者として参加する(1839-43)。その探検の植物報告書をまとめ,《南極植物誌》(1844-47)などを公刊する。ついで,北東インドを探検(1847-51)。その見聞を,一般向けに著したのが《ヒマラヤ紀行》(1854)であり,紀行文学,ヒマラヤ研究の古典として知られる。また,多種のシャクナゲを西洋にもたらした。後,モロッコ,北アメリカなどを踏査。植物地理学を発展させた。植物分類学の業績として,ベンサムG.Benthamと共著の《植物の種》(1862-83)がある。父の死後,後を継いでキュー植物園の園長となり(1865-85),数々の改革を行い植物学研究の国際的中心地にする。ローヤル・ソサエティの会長も務めた(1873-78)。C.ダーウィンの親友であり,彼の進化論を,自身の植物学研究に基づいて受容し,強力な支持者となった。
執筆者:下坂 英
英国国教会の聖職者,神学者。オックスフォードで学び,1585年ロンドンのテンプル教会の主任司祭に就任。ピューリタンのトラバースWalter Traversとの論争から生まれた《教会政治理法論》(1594)で,ピューリタンの聖書主義を批判し,英国国教会が神の法にも理性の法にももとらず,聖書と初代教会以来の伝統に基づいた教えであることを弁証した。その契約の理念はのちのロックに影響を及ぼし,そのすぐれた文章は16世紀イギリス文学の傑作に数えられている。
執筆者:八代 崇
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…植物界の1/3として扱われていたわけである。19世紀に入るとフランスのブロニャールA.Brongniart(1843),イギリスのベンサムG.BenthamとフッカーJ.D.Hooker(1862),ドイツのアイヒラーA.W.Eichler(1883)らは植物界を顕花,隠花の二大植物群に分類した。彼らによれば植物界の1/2として隠花植物は扱われていたわけである。…
…ハーバリウムと図書館,有用植物博物館,ジョドレル研究所,植物園の4部門で構成されている。19世紀後半にフッカー父子W.J.& J.D.Hookerが引き続いて園長をしていた間に,《植物の属》《キュー植物目録》などの刊行が始まり,世界の各地から集められた生材料(植物園)と資料標本(ハーバリウム)に基づく植物学の研究機関として発展した。同時に,市民のための社会教育や憩いの場としても活用されている。…
…植物界の1/3として扱われていたわけである。19世紀に入るとフランスのブロニャールA.Brongniart(1843),イギリスのベンサムG.BenthamとフッカーJ.D.Hooker(1862),ドイツのアイヒラーA.W.Eichler(1883)らは植物界を顕花,隠花の二大植物群に分類した。彼らによれば植物界の1/2として隠花植物は扱われていたわけである。…
…1852年に世界の最高峰と確認されたエベレストの名が,1830‐43年に測量局長官を務めたG.エベレストにちなむ名であることはよく知られている。19世紀の半ばには,より学術的な探検を主として植物学者フッカーJoseph Dalton Hookerがシッキムを踏査(1848‐50),次いでドイツのシュラーギントワイト兄弟が西部ヒマラヤとカラコルムを広く踏査(1854‐57)し,ガルワールのアビ・ガミン(7355m)の6784mまで登高した。 ヒマラヤ登山を目的とした最初の人物はイギリスのW.W.グレアムで,1883年にアルプスのガイドを伴って,シッキムやガルワールなど各地の山を試登,現在のチャンガバン(6864m)に登ったと主張したが,これはヒマラヤ研究家たちによって否定されている。…
…メアリー1世の時代に一時ローマ教会に復帰した英国国教会は,8年エリザベス1世の登位によって,ふたたびローマより独立した国民教会として確立した。エリザベスの教会・国家体制はローマ教会員とピューリタンによって厳しく批判されたが,16世紀末になるとフッカーが《教会政治理法論》(1594)を著し,神の法にも理性の法にももとらない英国国教会がその基礎を聖書と初代教会よりの伝統に置き,ローマにもジュネーブにも偏しない中道的立場に立つことを弁証した。安定したかに見えた国教会体制はスチュアート朝の登場によって危うくされ,1640年,絶対王政と結びついた主教制と祈禱書は廃止されたが,60年王政復古とともに再確立し,ピューリタンは信従を拒否して非国教徒となり,88年の名誉革命後は自由教会を形成した。…
…イギリス宗教改革はドイツやスイスの宗教改革とは違った歩みをたどったが,神学的には初めルター,ついでツウィングリ,ブツァー,カルバンら大陸の宗教改革者の影響を強く受けつつその教義的立場を確立した。国教会として確立するエリザベス朝では,大陸の神学者,とくにカルバンの教会論,職制論が支配的であったが,16世紀末にはバンクロフトRichard Bancroft,フッカーらが英国国教会を普遍的(カトリック)教会の一つの枝として位置づけ,使徒継承に基づく主教制の必要を唱えた。17世紀に入るとアンドルーズLancelot Andrewes,ロードWilliam Laudらがピューリタンに対して教会のカトリック性を強調し,ロードがピューリタン革命で処刑されたこともあって,王政復古時には高教会派が主導権を得た。…
…ただし,ピューリタンの範囲を正確に定義するのは困難で,国教会からの非分離派のカルビニスト(後の長老派),分離派のカルビニスト(後の独立派),分離派の非カルビニスト(後の諸セクト)の三者を包含する用語とするのが通説である。 エリザベス時代は,エリザベスの巧みな行政とともに,教会政治的にはホットギフトJohn Whitgift,思想的にはR.フッカーの活動によって抑止され改革の目的が達成されず,かえってR.ブラウンらの過激なピューリタン(国教会からの分離派)を生み出した。エリザベスの死後ジェームズ1世が即位したとき,ピューリタン牧師たちは〈千人請願〉を提出し改革の推進を求めたが,《欽定訳聖書》作成の願望以外はすべて受けいれられず,国教会体制はさらにひきしめられて継続することとなり,不満なグループはオランダやニューイングランドに移住するようになった。…
※「フッカー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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