ロス(読み)ろす(英語表記)Alvin Elliot Roth

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロス」の意味・わかりやすい解説

ロス(Diana Ross)
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Diana Ross
(1944― )

アメリカン・ポップ・ミュージックを代表する女性シンガー。デトロイト出身。本名ダイアン・アールDiane Earle。1960年代は人気コーラス・グループ、シュープリームスのリード・ボーカリストとして活躍。その柔らかで女性的な声は、日本のテレビ・ドラマやCMでもよく耳にする。

 1959年、地元の女の子の仲間と4人組のコーラス・グループ、ブライメッツを結成。グループはその後、地元のモータウン・レコードと契約し、3人組のシュープリームスとしてレコード・デビューすることになった。このときのメンバーは、ロスのほかにフローレンス・バラードFlorence Ballard(1943―1976)とメリー・ウィルソンMary Wilson(1944―2021)。シュープリームスは、新興レーベルのモータウンにあって、テンプテーションズやマーサ&ザ・バンデラスなどとともにアメリカのポップ・ミュージックを席巻(せっけん)した。

 ロスは、逸材がそろっていたモータウンにあって格別に際だったボーカリストではなかった。シュープリームスのデビュー当時、リード・シンガーになるのはバラードだろうといわれており、また1960年代なかばにモータウンへ移籍してきたグラディス・ナイトGladys Knight(1944― )ともなると、実力としては後に「ソウルの女王」とよばれることになるアレサ・フランクリンに匹敵するほどの歌唱力の持ち主だった。しかしロスは、ほかの黒人女性歌手にはない個性をもっていた。彼女はゴスペル・ソング的にエネルギッシュに訴えかけるのではなく、あくまでソフトな歌手だった。この、白人主体のポップ・マーケットに充分に通用するロスの特質を見抜いたのはモータウン・レコード社主のベリー・ゴーディ・ジュニアBerry Gordy Jr.(1929― )で、はたして彼女を中心としたシュープリームスは社主のねらいどおり、「愛はどこへいったの」「ベイビー・ラブ」「ストップ! イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」「カム・シー・アバウト・ミー」などのビッグ・ヒットを連続して放つことになる。

 1967年、グループはダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスと名前を変え、さらにロスを中心にして動き出した。そして「ラブ・チャイルド」「またいつの日にか」のヒットを出したあと、1969年に彼女は独立しソロ・シンガーの道を進む。

 「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」(1970)から、大物シンガーへの道は着実だった。不朽のジャズ・シンガー、ビリー・ホリデーの生涯を描いた映画『奇妙な果実/ビリー・ホリデイ物語』(1972、シドニー・J・フューリーSidney J. Furie(1933― )監督)に主演したときは不評を買ったものの、1973年の「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」のさわやかな歌声はロスだけにしか出せない味わいだった。2作目の映画となる『マホガニー物語』(1975、ベリー・ゴーディ・ジュニア監督)からの「マホガニーのテーマ」は、当時の日本でもヒットしている。

 1981年、ブルック・シールズBrooke Shields(1965― )主演の『エンドレス・ラブ』(1981、フランコ・ゼッフィレッリ監督)のテーマ・ソングを、同じポップ・マーケットでスターとなったライオネル・リッチーLionel Richie(1949― )とデュエットし評判になったころには、ファンの世代もかわり、彼女が1960年代に歴史的なグループに在籍していたことは二次的な情報でしかなくなっていた。その後、彼女はモータウンを離れるが、ドゥーワップ時代の名曲「ホワイ・ドゥ・フォールズ・フォール・イン・ラブ」や「ミラー、ミラー」などをカバーしヒットを重ねている。

[藤田 正]


ロス(Philip Roth)
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Philip Roth
(1933―2018)

アメリカのユダヤ系作家。ニュー・ジャージー州ニューアーク市にユダヤ系両親の下に生まれる。1954年バックネル大学卒業、1955年シカゴ大学の修士号取得。同大学で英語講師のかたわら雑誌に発表した短編小説を集めて出版した処女作品集『さようならコロンバス』(1959)が全米図書賞に選ばれ、文壇の寵児(ちょうじ)となり、続いて大作を発表する。ユダヤの男と非ユダヤの女の結婚生活の軋轢(あつれき)と崩壊、大学キャンパス内の教師たちの生活などを通して現代の生活、風俗を重層的に描いた最初の長編小説『自由を求めて』(1962)、夫を破滅させ自分も破滅する『ルーシィの哀(かな)しみ』(1967)、情愛深く口やかましい典型的なユダヤ的母親の影響から自立できない男の悲喜劇『ポートノイの不満』(1969)、ニクソン大統領を風刺した『われらのギャング』(1971)、1個の乳房に変身した男の話『乳房になった男』(1972)、野球を題材にアメリカの社会と文化を徹底的に風刺した『素晴らしいアメリカ野球』(1973)、自立した一個の男として女を愛することのできない男の悲劇を描く自伝的色彩の濃い『男としての我が人生』(1974)、そして『欲望学教授』(1977)と続いた。その後、作家修業時代を描いた『ゴースト・ライター』(1979)、花形作家時代の『解き放たれたザッカーマン』(1981)、中年期の『解剖学講義』(1983)という三部作を完成させた。この三部作は、1985年エピローグを追加して『縛られたザッカーマン』としてまとめられた。1980年代から1990年代にかけても、創作活動は活発である。『背信の日々』(1986)、『いつわり』(1990)、ノンフィクション『父の遺産』(1991。全米図書賞受賞)などがある。さらに、『シャイロック作戦』(1993)、『安息日劇場』(1995)、『アメリカ的牧歌』(1997)、『私は共産主義者と結婚した』(1998)も注目される。心理的洞察の深さ、風刺精神のしたたかさ、文体の芸術性で現代を代表する作家。

[大津栄一郎]

『青山南訳『われらのギャング』(1977・集英社)』『大津栄一郎訳『男としての我が人生』(1978・集英社)』『青山南訳『素晴らしいアメリカ作家』(1980・集英社)』『佐伯泰樹訳『欲望学教授』(1983・集英社)』『青山南訳『ゴースト・ライター』(1984・集英社)』『佐伯泰樹訳『解き放たれたザッカーマン』(1984・集英社)』『宮本陽吉訳『解剖学講義』(1986・集英社)』『宮本陽吉訳『背信の日々』(1993・集英社)』『宮本陽一郎訳『いつわり』(1993・集英社)』『柴田元幸訳『父の遺産』(1993・集英社)』『佐伯彰一訳『さようならコロンバス』』『斎藤忠行・平野信行訳『ルーシィの哀しみ』』『宮本陽吉訳『ポートノイの不満』』『大津栄一郎ほか訳『乳房になった男』』『中野好夫・常盤新平訳『素晴らしいアメリカ野球』(集英社文庫)』『岩元巌著『現代アメリカ作家の世界』(1988・リーベル出版)』


ロス(Sir James Clark Ross)
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Sir James Clark Ross
(1800―1862)

イギリスの海軍軍人、極地探検家。ロンドンに生まれ、12歳で候補生となり海軍に入る。叔父の海軍提督で北極探検家、ジョン・ロスSir John Ross(1777―1856)の下にあって航海や戦争に従事した。1818年叔父J・ロスと、同じく海軍提督、北極探検家のパリーSir William Edward Parry(1790―1855)の指揮する「北西航路」探究の北極航海に参加。このころより磁気測量、博物学調査に興味を覚える。1829~1833年、J・ロスとともにふたたび北西航路探究航海に出て、1831年ブーシアBoothia半島西に北磁極を発見した。1839~1843年の南極探検では、イギリス海軍よりエレバス号、テラー号による南極域の磁気測量を主目的とした探検隊長を命ぜられた。1841年、東経174度付近で北に開ける大きなロス海、ロス棚氷(たなごおり)を発見、また沿岸を測量して、ビクトリア・ランドと南極半島北端のイギリス領宣言を行った。また活火山を発見し、探検船の名をとってエレバス、テラーと命名した。これらの功により1844年サーの称号を授けられた。また、1848~1849年には北西航路探究で行方不明になったフランクリンSir John Franklin(1786―1847)捜索のための北極探検も行った。のちにスコット隊が発見したロス島も彼の名にちなむ。主著に『南方および南極地方の発見と探究の航海』A Voyage of Discovery and Research to Southern and Antarctic Regions(1847)がある。

[半澤正男]


ロス(Alvin Elliot Roth)
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Alvin Elliot Roth
(1951― )

アメリカの経済学者。ニューヨーク市生まれ。中学を中退し、コロンビア大学土曜クラスの学生となり、1971年に同大学を卒業(学位は応用数学「オペレーションズ・リサーチ」=OR:Operations Researchで取得)。スタンフォード大学で1973年にOR修士号、1974年に博士号(Ph.D.)を取得。イリノイ大学、ピッツバーグ大学、ハーバード大学教授を経て、2012年からスタンフォード大学教授。専門はゲーム理論、実験経済学、マッチング理論、マーケット・デザイン。

 ロスは、異なる嗜好(しこう)をもつ経済主体どうしの組合せを研究するマッチング理論を実社会に応用し、臓器移植、研修医配属、学校選択などで効率的な制度設計(マーケット・デザイン)に成功したことで知られる。この業績により2012年のノーベル経済学賞を受賞した。マッチング理論を築いたロイド・シャープレーとの共同受賞である。

 1960~1970年代にシャープレーが構築したマッチング理論を1980年代に実社会に適用。1984年の論文「The Evolution of The Labor Market for Medical Interns and Residents:A Case Study in Game Theory」で研修医のインターン先病院への割り振りにマッチング理論が使われていることを発見し、1999年の論文「The Redesign of THe Matching Market for American Physicians」で、より精緻(せいち)に制度を設計した。小中高校生の進学先の選択、臓器ドナーと患者の組合せなど、限られた資源をむだなく配分するマッチング理論を実社会に適用するブームの牽引(けんいん)役となった。こうした実証実験を通じ、市場が存在しなかったり、市場機能がうまく働かなかったりした場合でも、高効率・公平で不満を解消し、全体の効用(満足度)が高くなるように制度設計するマーケット・デザインを発展させた。著書に『フー・ゲッツ・ホワット――マッチメイキングとマーケットデザインの経済学』Who Gets What - and WhyThe New Economics of Matchmaking and Market Design(2014)などがある。

[矢野 武 2021年5月21日]


ロス(Henry Roth)
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Henry Roth
(1906―1995)

アメリカの小説家。当時のオーストリア・ハンガリー帝国にユダヤ人の子として生まれたが、7歳のときに両親とともにアメリカに移住、ニューヨークのユダヤ人街で幼少年時代を過ごし、ニューヨーク・シティ・カレッジに学ぶ。事実上の自伝といってもいい『これを眠りと呼んで』Call It Sleep(1934)を発表する。妄想癖のある父、愛情細やかな母、ヘブライ語を教えるラビ教師といった人物が織り成す薄汚いニューヨーク・ゲットーの日常を、感受性豊かな少年の目を通して、叙情的かつ細密なリアリズムで描いている。ユダヤ人の方言であるイディッシュ語の会話を含めて、卑語、呪(のろ)いに至るまで忠実に再現され、意識の流れを思わせる内面描写を通して主人公の少年の精神の遍歴が活写されているこの作品は、1930年代の埋もれた傑作として、ケージンなど1960年代の著名な批評家、研究者から高く評価された。晩年の作者は、メーン州の片田舎(かたいなか)で鵞鳥(がちょう)の養殖や、数学教師などをして生活を維持するかたわら、『移りゆく景色』Shifting Landscapes(1987)といった随筆や、『激流の恵み』Mercy of a Rude Stream(1994)といった自伝小説を発表したが、文学的偉業は『これを眠りと呼んで』一作といっていい。なお、ボニー・リョンズBonnie Lyons(1944― )による『ヘンリー・ロス』論(1976)は一読に値する。

[金敷 力]

『柴田元幸著『生半可版 英米小説演習』(1998・研究社出版)』


ロス(Andrew Roth)
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Andrew Roth
(1919―2010)

アメリカの国際的ジャーナリスト。ハンガリー移民の子としてニューヨークに生まれ、コロンビア大学で修士号を得た。太平洋問題調査会の研究員を経て、第二次世界大戦中はアメリカ合衆国海軍大尉として対日諜報(ちょうほう)活動に携わる。1945年『日本のジレンマ』を発表、財閥と天皇制を温存して戦後日本の立て直しを図ろうとするアメリカ国務省やグルー元駐日大使を批判し、自由主義者や社会主義者などによる恒久的平和の確立を提唱した。戦後は『ネーション』誌の論説記者や『トロント・スター・ウィークリー』紙の特派員を務め、中東、極東、東南アジアの各地を訪問。ロンドンに居を移して以来、世界各地の新聞・雑誌に寄稿する一方、1984年からは『ニュー・ステーツマン』紙の政治問題特派員を務めた。

[鈴木ケイ]

『小山博也訳『日本のジレンマ』(1970・新興出版社)』


ロス(Sir Ronald Ross)
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Sir Ronald Ross
(1857―1932)

イギリスの熱帯病学者。インドのアルモラの生まれ。1875年にロンドンのセント・バーソロミュー病院医学校に入り、1881年に卒業。同年ふたたびインドへ渡り、インド軍医団に入る。1892年マラリア研究に着手し、1894年にカがマラリアの伝播(でんぱ)に関係があるというラブラン-マンソンの学説の研究を始め、ついにカの体内でのマラリア原虫の生活環を明確にした(1897~1898)。1899年リバプール熱帯医学校の一員として西アフリカへ渡り、マラリアを伝播するカがハマダラカであることをつきとめた。1902年、マラリアに関する一連の研究によりノーベル医学生理学賞を受けた。

[大鳥蘭三郎]


ロス(Edward Alsworth Ross)
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Edward Alsworth Ross
(1866―1951)

アメリカの社会学者。アメリカ社会学創成期の有力な一人。ジョンズ・ホプキンズ大学卒業後、スタンフォード、ネブラスカ、ウィスコンシン各大学教授を歴任。『社会学の基礎』(1897~1904)において、保守的ダーウィニズムを攻撃し、アメリカ社会の改良に役だとうとして社会理論の形成に努めた。従来の生物学的文脈のなかにあった有機体説を社会的・心理的文脈のもとに定義し直し、社会過程の分析に力を入れ、過去の文明と現代社会を説明するのに用いた。『社会統制論』(1901)では、外的統制ではなく、啓蒙(けいもう)と説得による統制を重要視し、世論や教育、あるいはまた芸術家による理想像の創造の役割を説いた。『社会心理学』(1908)は、この分野の古典の一つとされている。政治の民主主義化を説く革新主義運動の旗手の一人ではあったが、また、移民に反対し、自国民保護主義を訴え、アングロ・サクソンの優越性を主張する論客でもあった。

[佐藤 毅]

『高部勝太郎訳『社会心理学』(1917・磯部甲陽堂)』


ロス(3rd Earl of Rosse, William Parsons)
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パーソンズ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロス」の意味・わかりやすい解説

ロス
Roth, Klaus Friedrich

[生]1925.10.29. ブレスラウ
ドイツ生まれのイギリスの数学者。1945年ケンブリッジ大学ピーターハウス・カレッジ卒業,ロンドン大学で 1948年理学修士号,1950年博士号取得。1948~66年ロンドン大学で教鞭をとったのち, 1988年までインペリアル・カレッジ・ロンドンの教授を務めた。1958年,イギリスのエディンバラで開催された国際数学者会議で,整数論に関する業績によりフィールズ賞を受賞した。おもな研究分野は整数論,とくに解析数論で,代数的数の有理数による近似の理論において大きな業績を上げた。αを無理数とすると不等式|p/q-α|<1/q2を満たす有理数 p/q が無限個存在する。この拡張として,代数的数αに対して,|p/q-α|<1/qμを満たす有理数 p/q が無限個存在するような,指数μの上限を求める問題が考えられる。この問題については 1844年フランスのジョゼフ・リウビル,1908年ノルウェーのアクセル・トゥエ,1921年ドイツのカール・ルートウィヒ・ジーゲル,1947年アメリカ合衆国のフリーマン・J.ダイソンらの研究により改良が加えられていったが,最終的には 1955年にロスが,どのような代数的数に対しても,このような指数μの上限は 2であることを証明した。アトル・セルバーグによるふるいの方法による解析数論の業績でも知られる。

ロス
Roth, Philip

[生]1933.3.19. ニュージャージー,ニューアーク
[没]2018.5.22. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の小説家。フルネーム Philip Milton Roth。ユダヤ系。シカゴ大学卒業後,母校で 2年間教鞭をとり,その間『ニューヨーカー』などの雑誌に短編を発表。26歳のとき出版した,中・短編からなる『さようなら,コロンバス』Goodbye, Columbus(1959)で一躍認められ,全米図書賞ほか五つの賞を独占した。その後,長編『自由を求めて』Letting Go(1962),『彼女が善良だったとき』When She Was Good(1967),奔放な俗語の駆使と大胆な性描写で話題を呼んだ『ポートノイの不満』Portnoy's Complaint(1969),ニクソン政権を風刺した『われらのギャング』Our Gang(1971),フランツ・カフカの『変身』を思わせる『乳房になった男』The Breast(1972),プロ野球を素材にアメリカ社会を痛烈に批判した『偉大なアメリカ小説』The Great American Novel(1973),告白小説『男としてのわが生活』My Life as a Man(1974)と,次々に多彩な作品を発表した。全米図書賞(1960,1995)のほか,ピュリッツァー賞(1998),ペン/フォークナー賞(1994,2001,2007)など受賞多数。

ロス
Roth, Alvin E.

[生]1951.12.18. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の経済学者。フルネーム Alvin Eliot Roth。マーケットデザインの先駆者。16歳で高校を中退,コロンビア大学で学び,1971年に理学士号を取得した。その後,スタンフォード大学で 1973年理学修士号,1974年博士号を取得,1974~82年イリノイ大学で教鞭をとった。1982年にピッツバーグ大学A.W.メロン経済学講座教授に就任,1985~98年経営学の教授を務めた。1998年にはハーバード大学ジョージ・ガンド経済学講座教授に任命され,2013年に名誉教授となる。2012年からスタンフォード大学で教鞭をとる。マッチング理論に基づくゲール=シャプリー・アルゴリズムの妥当性に気づき,実証的研究を通して,それがマーケットの機能を明らかにするとともに,成功している組織における安定性の重要性を示すことができることを発見。この理論を用いて,アメリカの研修医と研修先の病院をマッチングさせるプログラムを手がけた。2012年,「安定配分理論とマーケットデザインの実践」に関する功績により,ロイド・シャプリーとともにノーベル経済学賞を受賞した。シャプリーの理論と実証的研究,およびロスのマーケットデザインへの応用を組み合わせることで,組織や個人にとって相互の利益となる効率的なマッチングを行ない,さまざまな市場で資源をよりよく配分することが可能になった。

ロス
Ross, Betsy

[生]1752.1.1. ペンシルバニア,フィラデルフィア
[没]1836.1.30. ペンシルバニア,フィラデルフィア
アメリカ合衆国の国旗を最初につくったとされる人物。フィラデルフィアのクェーカー教徒。室内装飾家の見習いとなったのち,1773年同業のジョン・ロスと結婚し,1775年までに自分たちの店を構えた。1776年夫の死後も室内装飾の仕立業を続け,その後 2度再婚したのちも,夫や娘たちといっしょに旗を含む装飾品をつくった。ロスがアメリカの国旗の製作に携わったという話は,1870年に孫のウィリアム・キャンビーがペンシルバニア歴史協会に送った論文によって広まった。それによると,1776年6月にジョージ・ワシントン大陸会議の委員会の要請で星条旗をつくったとされる。この旗は 1777年6月14日正式に国旗に制定された。ロスが海軍の旗をつくったことは知られているが,国旗をつくったという話については確固たる証拠はない。

ロス
Ross, John

[生]1790.10.3. アメリカ,テネシー,ルックアウトマウンテン近郊
[没]1866.8.1. アメリカ,ワシントンD.C.
アメリカインディアン,チェロキー族族長。インディアン名を Koowe(Coowescoowe)という。スコットランド人の交易商人とチェロキーの混血で,白人社会で高等教育を受けた。ジョージア州におけるチェロキーへの圧迫に抵抗し,1819~26年チェロキー国民会議議長,28~39年東部チェロキー大族長。戦争以外のあらゆる手段を用いてチェロキーの自由と権利を守るために戦った。戦いに敗れ,38年オクラホマの指定居留地に強制移住させられた。そのときチェロキーの通った道は「涙の踏みわけ道」と呼ばれる。ロスはその地で東・西部チェロキーを大同団結させてその族長となった。ワシントン D.C.に事務所を開き,死ぬまでチェロキー条約締結 (1866) に努力した。

ロス
Ross, Sir John

[生]1777.6.24. バルサロック
[没]1856.8.30. ロンドン
スコットランド出身の海軍軍人,北極探検家。極地探検家ジェームズ・クラーク・ロスの叔父。1794年海軍に入り,フランス革命戦争やナポレオン戦争でスウェーデンの艦隊を指揮した。1818年の最初の北極探検は失敗したが,1829~33年の第2回北極探検は成功で,カナダ北西部をおもに探検し,貴重な成果を上げた。1850年ジョン・フランクリン捜索を目的とした第3回探検は失敗。主著 "A Voyage of Discovery"(1819),"Narrative of a Second Voyage in Search of a North-West Passage"(1835)。

ロス
Ross, Sir James Clark

[生]1800.4.15. ロンドン
[没]1862.4.3. バッキンガムシャー,エアーズベリー
イギリスの海軍軍人,北極,南極探検家。 1812年海軍に入り,18年最初の北極探検に参加。その後数回にわたり北極探検を行い,31年北磁極の位置を確定した。 39~43年南極を探検。 41年ロス海を発見。探検の目的は磁気観測と南極の磁極に達することであったが失敗,途中ビクトリアランドを発見。 48~49年 J.フランクリンの捜索を行なった。主著"A Voyage of Discovery and Research in the Southern and Antarctic Regions" (1847) 。

ロス
Rosse, William Parsons, 3rd earl of

[生]1800.6.17. ヨーク
[没]1867.10.31. モンクスタウン
イギリスの天文学者。伯爵。下院議員(1821~34),上院議員(1841)。大型望遠鏡製作の夢にとりつかれ,幾多の経験を積んだのち,1845年に青銅製の反射鏡をもつ直径 72インチ(約 1.8m),長さ約 16.5mに及ぶ大望遠鏡を製作,星雲星団銀河の観測・研究を行なった。特に渦状銀河の形を明らかにした功績は大きい。また銀河と星団の構造上の差異を明らかにした。

ロス
Ross, Sir Ronald

[生]1857.5.13. アルモラ
[没]1932.9.16. ロンドン
イギリスの医師。インド生れで,母国で医学を学んだのちインドに戻り,1892年からマラリアの研究に着手した。マラリア原虫がハマダラカによって媒介されることを発見してマラリア撲滅の突破口を開き,その功により 1902年のノーベル生理学・医学賞を受賞。 02~12年リバプール大学熱帯医学教授。 12年ロンドンのキングズカレッジ病院熱帯病科の医師,26年ロス熱帯病研究所の所長となる。主著"The Prevention of Malaria" (1910) 。

ロス
Ross, Harold Wallace

[生]1892.11.6. コロラド,アスペン
[没]1951.12.6. ボストン
アメリカのジャーナリスト。『スターズ・アンド・ストライプス』紙などの編集に携わったのち,1925年,雑誌『ニューヨーカー』 The New Yorkerを創刊,死ぬまで編集長を務め,サーバー,E.B.ホワイト,W.ギッブズらの優れた編集陣の協力を得て,洗練された誌面をつくり上げ,多くの新人を発掘した。

ロス
Ross, Sir William David

[生]1877.4.15.
[没]1971
イギリスのギリシア古典学者,倫理学者。 1900年オックスフォード大学オリエル学寮講師,23年道徳哲学教授,29年同学寮学長。アリストテレス研究の第一人者で,その校訂,注解,翻訳を多く出版。オックスフォード版英訳全集の編集者。『形而上学』『自然学』などアリストテレス注解のほか"The Right and the Good" (1930) などの倫理学書もある。

ロス
Ross, George

[生]1730.5.10. デラウェア,ニューカッスル
[没]1779.7.14. フィラデルフィア
アメリカ独立革命期の法律家。独立宣言署名者の一人。ペンシルバニアのランカスターで法律家として活躍。 1776年ペンシルバニア邦憲法制定会議副議長となり,特に権利宣言条項のために努力。 74~77年大陸会議代表。 79年ペンシルバニア海事裁判所判事。

ロス
Ross, Martin

[生]1862.6.11. ゴールウェー
[没]1915.12.21. コーク
アイルランドの女流作家。本名 Violet Florence Martin。旧家に生れ,1886年から従姉イーディス・ソマービルと共作で 19世紀のアイルランド社会を描いた小説を発表。代表作『真のシャーロット』 The Real Charlotte (1894) 。

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