日本大百科全書(ニッポニカ) 「パットン」の意味・わかりやすい解説
パットン(Charley Patton)
ぱっとん
Charley Patton
(1887―1934)
アメリカのブルース・シンガー、ギタリスト。ブルースという名称で知られるようになる音楽が、最も古く、また不特定多数のミュージシャナーmusicianer(音楽演奏家を指す当時の用語だが、本業は農夫であることが多い)に演奏されるようになったのが、ミシシッピ川の肥沃な三角地帯(ミシシッピ・デルタ)であったとすれば、その地で最も強い影響力を持ったミュージシャンが、デルタ・ブルースの王者といわれたパットンである。
デルタを外れたミシシッピ州南部エドワーズ近郊に生まれ、白人およびネイティブ・アメリカンの血も受けている。20世紀初頭、綿花栽培のために急速に開墾されつつあったデルタ地帯の真っ只中の、クリーブランドとルールビルの中間に位置した広大なドッケリー・プランテーションに一家は移り、そこでパットンは14歳のころにはギターを弾いていたとされる。
このプランテーションはデルタ・ブルース揺籃期の極めて重要な農場で、1910年代にはほかにウィリー・ブラウンWillie Brown(1900―52)やトミー・ジョンソンTommy Johnson(1896―1956)、また全くレコードを残していないために名前のみ伝わっている、パットンの師匠格のヘンリー・スローンHenry Sloan、アール・ハリスEarl Harris、ベン・マリーBen Mareeといったギター弾きが切磋琢磨していた。
パットンは1920年代から30年代のごく短期間にかけて六十数曲を録音しているが、その曲数の多さはデルタ・ブルース、あるいはブルース・レコード史の最初期においてパットンが最も力があり影響力のあった、パイオニア的なミュージシャンだったことを示している。また、ブルースの歴史に残る大物たち、サン・ハウスSon House(1902―88)、ロバート・ジョンソン、ハウリン・ウルフといったブルースマンに大きな影響を及ぼし、ブルースの真髄を伝えたのもパットンである。パットンのレパートリーには、ブルース以前のバラード、ストリング・バンドの白人ミュージシャンと共通する音楽(こうした曲は、プランテーションの支配者側の白人が催すピクニックなどでは受けがよかった)、宗教歌も少なくなかったが、独自のビート感による演奏に、哀調を帯びたしわがれ声で、ときに攻撃的に、ときに切々とした歌を乗せ、デルタ特有のブルースを確立した。
なかでも、27年のミシシッピ川の大洪水を歌った「ハイ・ウォーター・エブリホエア」(1929)、僚友ブラウンがギターの低音弦をパーカッシブに弾いてサポートした「ムーン・ゴーイン・ダウン」(1930)といった曲は不朽の名作である。最も売れた曲としては最初のセッションの「ポニー・ブルース」(1929)がある。パラマウント・レーベルへの最後の吹き込みとなった30年のレコーディングは、ハウス、ブラウン、ルイーズ・ジョンソンLouise Johnsonとともに北部ウィスコンシン州グラフトンへ出かけて行われ、濃密このうえないデルタ・ブルース・セッションとなった(『伝説のデルタ・ブルース・セッション 1930』(1991))。
34年、心臓病でデルタのホリーリッジで死亡。2002年に発売された7枚組CD『スクリーミン・アンド・ハライン・ザ・ブルース』Screamin' and Hollerin' the Blues; The World of Charley Pattonにはパットンやデルタ・ブルースのブルースマンたちの演奏が、現存する78回転盤のレコードから収録されており、ブルース・ファンにとってはロマンをかき立てられるデルタという土地とそこで育まれたブルースを聴くことができる。
[日暮泰文]
『Stephen Calt & Gayle WardlowKing of the Delta Blues; The Life and Music of Charlie Patton(1988, Rock Chapel Press, Newton)』
パットン(George Smith Patton Jr.)
ぱっとん
George Smith Patton Jr.
(1885―1945)
アメリカの軍人。1909年陸軍士官学校卒業。1932年陸軍大学卒業。1942年第一機甲軍団長として北アフリカ上陸作戦に参加、1943年第七軍司令官としてシチリア島に進攻、38日で同島を占領して勇名を馳(は)せた。1944年6月第三軍司令官としてノルマンディー上陸作戦に参加、わずか4週間でフランス中部を制圧、さらに1945年3月ライン川を突破、4月末にはドイツ南部、チェコスロバキア西部、オーストリア西部を占領した。同月大将に昇進。ドイツ降伏後、バイエルン地方の軍政長官に任命された。彼は勇猛な司令官として知られたが同時に失敗も多く、シチリア島作戦では戦闘神経症になった味方の兵士を臆病(おくびょう)だと殴打して非難され、また戦後、連合軍の非ナチ化政策を批判してバイエルン地方の軍政長官および第三軍司令官を罷免された。1945年12月失意のうちに旧西ドイツ、マンハイム近くでの自動車事故により死亡した。
[藤村瞬一]