プロレトクリト
ぷろれとくりと
Пролеткульт/Proletkul't
旧ソ連初期のプロレタリア文化の啓蒙(けいもう)団体およびその機関誌『プロレタリア文化』の略称。1917年9月、A・ボグダーノフらによって結成され、17~20年当時、約40万人の会員を擁した。理論機関誌『プロレタリア文化』(1918~24)を中心に『炉』『創造せよ!』(いずれもモスクワ)、『未来』(ペトログラード、現サンクト・ペテルブルグ)など約20の機関誌を出した。党と国家に直接的に統制されない組織を全国にもち、労働者以外の文化運動に対しては排他的であり、ややもすれば文化遺産の継承を否定する傾向をみせた。20年ごろからレーニンと党からの批判を受けたことにより活動は下火になり、32年に終息した。
[中本信幸]
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プロレトクリト【Proletkul’t】
1917年に結成されたソ連邦の文化団体。プロレタリア文化Proletarskaya kul’turaの略。プロレトクリトの文芸理論は,その指導者ボグダーノフAleksandr Aleksandrovich Bogdanov(1873‐1928)によって代表される。マルクス主義文芸理論が,芸術の認識的機能を一面的に強調する傾きをもっていた中で,その組織的機能に注目したのが最大の特色で,芸術は〈認識のみならず,感情や志向の面でも社会的経験を組織する〉とされた。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内のプロレトクリトの言及
【アバンギャルド】より
…事実,前衛芸術の概念が普及したのは,ブルジョア社会の破局があらわになった第1次大戦以後で,抽象芸術とシュルレアリスムがその二大潮流を形づくったほか,プルースト,ジョイス,A.V.ウルフ,A.ハクスリー,カフカ,ピランデロ,ドス・パソスらの文学も,先鋭な方法的実験によって注目された。反面,革命精神も流派や様式として実体化されると,モダニズムの風潮に飲み込まれがちで,ロシア革命後ソ連のプロレトクリトの運動や,資本主義諸国のプロレタリア芸術運動は,その点を厳しく批判したから,〈革命の芸術と芸術の革命〉〈政治の前衛と芸術の前衛〉の統一が絶えず求められた。だが,ソ連ではスターリンの支配体制が完成した1930年代初頭,芸術諸団体の解散とジャンル別単一組織への再編が共産党によって決定され,社会主義リアリズムが創作と批評の基本方法として公認されたため,20年代にめざましかった前衛芸術はタブーとなり,メイエルホリド,パステルナーク,エイゼンシテイン,マレービチらは粛清されるか,沈黙を強いられた。…
【自由大学】より
…学習内容は,哲学,経済学,文学論,音楽論,性生物学などであり,講師として土田杏村,山本宣治,高倉テル,新明正道,三木清,中山晋平らが招かれた。自由大学の設立は,大正デモクラシーのもとでおこった新潟県木崎村の農民学校や労働学校などと軌を一にする民衆の教育運動の一つであり,ヨーロッパのプロレトクリト運動の影響をうけていた。自由大学のうち最も活発であったのは伊那,上田の自由大学で,それぞれ29年,30年まで存続した。…
【プロレタリア文学】より
… 17年のロシア革命後,プロレタリア文学は組織的な文学運動の性格を強める。まず〈プロレトクリト〉がその母体となり,ここからは〈鍛冶場Kuznitsa〉派のゲラシモフMikhail P.Gerasimov(1889‐1939),カジンVasilii V.Kazin(1898‐1981)らのプロレタリア詩人群が生まれた。しかし,その観念的ロマン主義にあきたりないD.A.フールマノフ,F.V.グラトコフ,ベズイメンスキーAleksandr I.Bezymenskii(1898‐1973)らの作家,詩人が,22年にプロレタリア文学グループ〈十月Oktyabl’〉に結集し,それがVAPP(ワツプ)(全ロシア・プロレタリア作家協会)に発展するあたりから,ソ連共産党の文芸政策と密接なかかわりをもつようになる。…
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