ドイツの詩人。3月20日、シュワーベン地方の聖職者(プロテスタント)の家系に生まれる。幼時父と継父を失う。早くから聖職者コースの教育を受け、1788~93年、チュービンゲン神学校(大学神学寮)で学んだ。このときヘーゲル、シェリングと親交があり、相互に影響しあった。しかし彼は牧師の職を拒み、最初はシラーの世話で家庭教師になり、詩人への道を進んだ。このころフィヒテの講義にも感激した。96~98年、フランクフルトの銀行家のもとで、教え子の母ズゼッテ(作品ではディオティーマとなる)に対する精神的な愛が、多くの詩作の契機となった。この家を去ってから1800年5月まで、友人を頼ってホンブルクにいたが、やがてまた転々と家庭教師をしながら、2年6月、ボルドーから帰郷したとき最初の異常な行動の徴候があった。それと前後してズゼッテが病死している。06年以後、精神病者として暗い後半生を送った。この期間にも50編近くの詩が残されている。
彼に対する評価は、生前も死後もそれほどではなかったが、20世紀に入ってからしだいに高まり、時代を先取りした独自の詩人として、最高級のランクを受けるようになった。作品には小説『ヒュペーリオン』(1797~99)、戯曲(劇詩)『エンペドクレスの死』(1798~99)のほか、多数の叙情詩があり、ほかに詩作に関する哲学的な論文、ギリシア文学(ソフォクレス、ピンダロス)のドイツ語訳がある。初期の詩はクロプシュトック、シラーの影響が濃く、神学校時代には「自由」「調和」など、古代ギリシアの理想を改革的な新時代の理想としてたたえた賛歌が多い。当時学生の心をとらえたのは哲学(カント、フィヒテ)、ギリシア古典、フランス革命などで、『ヒュペーリオン』の最初の計画もそこから生まれた。この小説は数度改稿ののち、ズゼッテを知ってから筆が進み、1799年、最終の形で刊行された。『エンペドクレスの死』が集中的に執筆されたのは1798~99年であるが、改稿を重ねたすえ、結局未完に終わった。この悲劇も時代との対決が鋭く出ている。自らエトナの火口に身を投げた主人公の死は、時代が要求した犠牲の死とされており、作者のキリストへの接近がみられる。中期から後期の詩は、古代ギリシアの厳格な韻律を用いたオード(頌歌(しょうか))、エレジー(悲歌)形式が多く、やがてそれに自由韻律の賛歌が加わる。これはヘルダーリンの詩の絶頂で、後期賛歌といわれる。
彼の詩は、叙情詩といってもきわめて思想性の高いもので、ハイデッガーは彼のことを称して「詩人の詩人」といった。それは詩人の使命、詩作の本質をテーマにする詩人を意味する。「乏しき時代」(神を失った時代)に神聖なものを再建することがヘルダーリンの使命であった。やさしくいえば、すべて機械化した世の中に、人間性の自然を取り戻し、自然と人為を調和させることである。
[野村一郎]
『手塚富雄・浅井真男他訳『ヘルダーリン全集』全四巻(1966~69・河出書房新社)』▽『『ヘルダーリン』上下(『手塚富雄著作集1・2』1980~81・中央公論社)』▽『U・ホイサーマン著、野村一郎訳『ヘルダーリン』第三刷(1982・理想社)』
ドイツの詩人。自然の美しいシュワーベン地方のネッカー河畔の町ラウフェンに,修道院執事の長男として生まれた。2歳で父と死別し,母の再婚による義父とも9歳で死別。もっぱら自然を友として育った。母の希望で牧師になるため,修道院学校を経てチュービンゲン大学神学部に進学(1788)。親しい学友にヘーゲルとシェリングがおり,共に古代ギリシアの全一的世界に憧れ,カントの批判哲学に啓発され,フランス革命に共鳴した。彼の理想主義的基調はここに定まったが,真の詩人に育つにはさらに一つの重要な体験を要した。すなわち卒業(1793)後,牧師職を嫌い詩作を目指した彼は,1796年フランクフルトの銀行家ゴンタルト家の住込み教師となったが,夫人ズゼッテ(作品中のディオティーマ)に古代ギリシアの美の理想(自然と精神の調和美)の具現を認め,年来の夢想は現実の裏付けを得たが,これを機に大学以来のシラー風観念詩の世界を脱し,心情の深みから発する独自の詩境をひらいた。小説《ヒュペーリオン》(1797,99)と一連の頌歌は最初の実りである。98年秋に辞職し,親友のいるホンブルクへ移住。ズゼッテと悲痛な文通が続く一方,政治的諸事件に触れて現実意識を強めたが,こうした内面の葛藤を通して詩人として飛躍的発展をとげ,悲劇《エンペドクレス》(1799),抒情的頌歌の絶唱,各種論文等を生んだ。1800年春にホンブルクを去って以後は家庭教師として,スイスの寒村へ,さらには南仏ボルドーへと流浪の生活が続くが,この間に悲歌(《パンとブドウ酒》《帰郷》等)と賛歌(《平和の祝い》《パトモス》等)の大作,ギリシア悲劇翻訳等,質量ともに驚異的な成果をあげた。中でも自然と神々をうたう賛歌は,理想界と現実界の仲介者の自覚に立ち,時代更新の期待を神話的ビジョンとピンダロス風の硬質な文体とで表現した未曾有のもの。02年ボルドーから帰郷後は精神分裂病(統合失調症)の症状が著しく,06年チュービンゲンの病院に入り,翌年同地の指物師に引き取られ,以後36年間をその家の一室で精神的薄明の中に過ごし,病没した。
彼はゲーテやシラーをはじめ同時代の文壇からは真価を認められなかったが,20世紀に入って再評価の動きが加速度的に高まり,いまではドイツ最高の詩人の一人と認められるに至った。ただし彼がはらむ問題性は実に深く広範なため,さまざまなヘルダーリン観が並存し,もっぱら形而上的・宗教的な詩人とする見方と,もっぱら政治的革命意識に貫かれた詩人とする見方(P. ワイスの戯曲等)を両極端とする幅をもっている。
執筆者:宮原 朗
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1770~1843
ドイツの詩人。神と人の調和した古代ギリシアの世界にあこがれ,美しい抒情詩の数々のほか,書簡体小説『ヒュペリオン』,戯曲『エンペドクレスの死』をつくった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…個人主義と全体主義を対置させて第三の立場を求めた《マラ/サド劇Marat/Sade》(1964)の成功が転機となって,個人主義を清算したワイスは,世界を抑圧から解放する闘争に参加することを決意し,形式的にも新しい政治演劇《追究》(1965),《ルシタニアの怪物の歌》(1967),《ベトナム討論》(1968)を発表した。これに続く《亡命のトロツキー》(1970)では教条的左翼と一線を画し,《ヘルダーリン》(1971)によってこの狂気の詩人に新たな評価を与えた。しかし,ライフワークともいうべき虚構の自伝小説《抵抗の美学》3巻を完成した直後に急死した。…
…現存在分析を創始したスイスの精神医学者ビンスワンガーの主著で,1957年に単行本の形で刊行された。5例の精神分裂病のくわしい症例研究からなるが,30年代に著者が独自の人間学的方法を確立したのち,数十年にわたる臨床活動の総決算として44年から53年にかけて集成したもの。ここでは,分裂病は人間存在に異質な病態としてではなく,人間から人間へ,現存在から現存在への自由な交わりをとおして現れる特有な世界内のあり方として記述される。…
…ヘルダーリンの著した唯一の小説(第1巻1797,第2巻1799)。18世紀のギリシア青年ヒュペーリオンが,師との出会いと友との交わりを通じて,古代ギリシアの全一的生への憧憬を強め,と同時に堕落した現代への怒りと改革への熱情をもやす。…
※「ヘルダーリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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