ギリシア南部にあって,バルカン半島の最南端を形成する半島。古代ギリシア語の綴りではPeloponnēsos。東西,南北ともに約230km,面積約2万1500km2でギリシア全土の16%を占める。北東端において幅わずか6kmのコリントス地峡でギリシア本土とつながり,北では細く入り込んだコリントス湾をへだてて本土に対峙する。東はアルゴリス湾を経てエーゲ海に通ずる。人口約110万。全体に山が多く,海岸にまで迫っていて,平野はごくわずかしかない。パトラス,カラマタ,コリントス,スパルタ,ナウプリアなどが主要な町である。雨は少なく,ブドウ,オリーブ,タバコなどを産する。また東部のアルゴリス平野ではオレンジが作られる。北部にのみ鉄道が走り,残る部分ではバスが交通手段である。
この半島には前3000年ころにはもう人が住んでいた。その人々がどこから来たか,どのような言語を話していたか,はっきりしたことはわからないが,古い地名の語尾は多くアジア系である。前2000年代に入ってギリシア語を話す人種が侵入,クレタ島のミノス文明と並んで重要なミュケナイ文明を確立した。その中心は半島の東部ミュケナイおよびその周囲のアルゴリス平野であった。ここにはミュケナイやティリュンスなど,シュリーマンの発掘で知られる遺跡が残っている。いわゆるドリス人の侵入の後,ペロポネソスは混乱期に入るが,その中からまずアルゴスが,そして後にスパルタがポリスとして興り,とくにこの半島の中心の山地に位置するスパルタはその厳格な統治によって隆盛にいたり,アテナイと対抗する勢力となった。また西寄りのオリュンピアは戦争をも中断して全ギリシア的に行われたオリンピック競技の中心地として,またゼウス信仰の地として前8世紀から栄え,今もよくその雰囲気をとどめる遺跡である。アテナイとスパルタをそれぞれの盟主とする同盟が対立したペロポネソス戦争の後,ギリシアは衰退し,前2世紀にはローマ帝国の支配下にはいる。ローマ帝国の凋落とともにこの地域にも多くの異民族が侵入し,歴史は混乱をきわめる。中世にはペロポネソスはモレアMoreaと呼ばれ,ビザンティン帝国と西欧の諸国(とくにベネチア)との勢力の拮抗の場となった。15世紀以降はオスマン帝国と西欧諸国との間にも同じような抗争があった。19世紀の近代ギリシア独立運動に際してペロポネソスは重要な役割を果たし,独立と同時にまず確保されたギリシアの領土はこの半島だけであった。
ペロポネソスの名は〈ペロプスの島〉を意味し,ミュケナイの王アガメムノンやアテナイの伝説的な開祖テセウスの先祖である神話上の人物に由来する。神話の世界でもこの半島は多くの英雄の活躍する場であり,たとえばヘラクレスの12の功業の前半の六つはペロポネソスの各地を舞台にしているし(残る六つは後世の追加の感が強い),ホメロスの叙事詩の主人公たちの多くはこの半島の出身である。
執筆者:池澤 夏樹
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ギリシア本土南部を構成する半島。コリント地峡によりかろうじて本土につながっているが、東をエーゲ海、南西をイオニア海、北をパトレー湾とコリント湾に囲まれ、ほぼ島状の形をしている。7県に分かれる大行政区を構成し、面積2万1439平方キロメートル、人口116万6000(2003推計)。その名は古代ギリシア人が「ペローポス(神話上の英雄)の島」とよんだことに由来する。ビザンティン帝国時代(4~15世紀)には、その形状からモレアMorea(「桑の葉」の意)と称された。全体に山がちだが、エリス、メッセニアには肥沃(ひよく)な平野が広がる。典型的な地中海式農業地帯で、穀類、ワイン、オリーブ油、柑橘(かんきつ)類、イチジクが特産。牧畜も盛んで畜産物も多い。1821年ギリシアの独立戦争にいち早く参加し、1832年成立の王国領に入った。パトレー、カラマタ、コリント、ピルゴスが交易の中心。
[真下とも子]
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