前431年から前404年にかけて,アテナイを盟主とするデロス同盟と,スパルタを中心とするペロポネソス同盟とが,古代ギリシア世界を二分して戦った大戦争。
前435年,ギリシア本土北西岸の植民市エピダムノスの党争をきっかけにコルキュラとコリントスが対立し,前433年,両市の戦いに際しアテナイがコルキュラ救援軍を送ったことにより,アテナイとペロポネソス同盟の有力市コリントスとが争うようになったのが戦争の直接の原因であるが,ペリクレスの指導の下にデロス同盟の盟主としてギリシア随一の勢いを示すアテナイに対し,スパルタが不安と反感を抱くにいたったところに,その遠因があったと考えられる。
前431年5月,ペロポネソス同盟軍のアッティカ侵入をもって戦いは始まった。それに先立ちアテナイはペリクレスの提案に基づき,田園に住む市民たちを全員,中心市と外港ペイライエウスとを囲む城壁内に入れて籠城し,優勢な海軍力を背景に海上輸送路により穀物供給を確保しつつ,ペロポネソス同盟側を海上から攻撃する戦略をとった。この作戦は大局的にみて正しく,かつ成功したが,開戦の翌年,早くも試練に見舞われる。人口が急激に膨張し不備な生活環境の下にあるアテナイ市中を襲った疫病がそれである。これにより市民の3分の1近くがこの年から翌429年にかけて病死し,そのうえ無二の指導者ペリクレスを失って,アテナイは戦争遂行上,深刻な打撃を被った。ペリクレスの死後,クレオンをはじめとする民衆指導者たちの間に横行した,大局観に欠ける好戦主義が,結局アテナイの敗北につながったことに,それは端的に示される。疫病流行後もアテナイの海外での優勢は揺るがず,とりわけ前425年,アテナイ軍がペロポネソス半島南西岸のピュロスを占領し,300人の捕虜を捕らえた戦闘は,スパルタ人の心胆を寒からしめた。スパルタ側は毎年繰り返されていたアッティカへの侵入を中止し,和平を望んだが,アテナイはクレオンの主張に動かされて,これを拒んだ。戦局はこののち,とりわけボイオティアやトラキアを舞台にスパルタ側に有利な展開をみせる。前422年,クレオンはトラキアに遠征して戦死し,翌421年,アテナイ,スパルタ双方の間で講和が成立する。この〈ニキアスの和約〉は,しかしながら戦火を完全に鎮静させるにいたらなかった。新たな主戦論者アルキビアデスの台頭により,アテナイ民会の戦局判断が左右されたからである。その到達点が前415年のシチリア遠征決定であり,これが結局アテナイの敗北につながった。前413年,2年にわたるアテナイ軍の遠征は惨敗に終わり,アテナイは多数の市民を失った。同じ年,スパルタ軍はアッティカ北部のデケレイアを占領して砦を築き,以後ここを拠点に手近な穀物供給地エウボイア島との交通を押さえ,またアッティカ各地への劫掠を繰り返して,アテナイの国力の疲弊を誘った。シチリア遠征の失敗ののち,デロス同盟諸市の離反が相次ぎ,それに加えてスパルタがペルシアと結んで小アジア方面のスパルタ海軍の増強に成功するに及んで,大勢は急速にスパルタ側の優位に傾いていった。アテナイは前406年,アルギヌサイの海戦に勝利を収めたものの,暴風のために多くの艦船と兵士を失い,翌405年にはアイゴスポタモイの戦で敗れて黒海方面での制海権を奪われ,穀物輸送路を押さえられて,前404年降伏した。
アテナイの厳罰を要求するコリントスなどペロポネソス同盟諸市の意向を抑えて,スパルタは城壁の破壊,艦船の所有制限,デロス同盟の解体などの比較的寛大な条件で和議を成立させた。デロス同盟の盟主としてのアテナイの栄光の時代は終りを告げた。前4世紀に入ると,アテナイは政治的にも経済的にも急速に国力を回復し,有力ポリスとしてギリシア世界の一中心としての位置を維持する。前377年のアテナイ第二海上同盟の結成は,その表れである。しかしペロポネソス戦争のアテナイ社会に及ぼした影響は深刻であった。籠城作戦に伴う田園の荒廃は,市民団の中核をなす土地所有農民の生活基盤を揺り動かし,彼らの伝統的な共同体意識に変化をもたらした。土地所有関係に変動がみられるようになったのは,その直接的な結果であり,さらに最盛期ポリスに特徴的な市民団の閉鎖性にも,外国人への各種特権の賦与や外国人によるアテナイ市民権の不正取得に示されるように,緩みが認められるようになった。戦勝国たるスパルタでの変動はさらに激しい。それまで貴金属貨幣の使用を禁じていたこの国に,戦勝を境にそれらが大量に流入し,スパルタ特有の閉鎖的で安定した社会状況は急速に失われていく。土地所有の少数者への集中と完全市民の減少とは,その結果である。アテナイ,スパルタ以外のギリシア諸市においても,戦争の影響は大きかった。貧富の差の増大,党争の激化ならびに傭兵の活躍がそのことをよく物語っている。スパルタによる覇権確立の陰に,ギリシア諸市の間に広く社会変動の波が広がり,ポリス衰退への引金となったところに,ペロポネソス戦争の歴史的意義があったと考えられる。
執筆者:伊藤 貞夫
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紀元前431~前404年、ギリシアのアテネ陣営とスパルタ陣営との間に戦われた戦争。
前5世紀初めのペルシア戦争の過程で前478/477年に成立した第一次アテネ海上同盟(いわゆるデロス同盟)は、前6世紀後半以降スパルタを盟主として成立していたペロポネソスPeloponnesos同盟に対抗するアテネの「力の政策」の所産であった。このような二大陣営の出現は、従来のギリシア国際政治の環境に重大な変化をもたらし、陣営外にある弱小国の局地的問題を国際紛争にまで増幅させる要因を当初からはらんでいた。前5世紀なかばにおける両陣営のこのような形の対立は、前446年の「30年和約」によって、本格的な正面衝突を回避することができたが、前433年にアテネがコルキラ支援の海軍を派遣し、その翌年にはポテイダイアに出兵してペロポネソス同盟の有力メンバーであるコリントの激しい反発を誘ったことが導火線となって、ペロポネソス同盟は前431年アテネとの開戦に大きく傾いた。
同年初め、テーベがプラタイアイの内紛に武力介入して両陣営の正面衝突が必至となるや、アテネの指導者ペリクレスは国土荒廃の犠牲を賭(と)しても海軍力による攻勢をとる戦略から、田園の住民を市域の城壁内部に強制疎開させた。はたして同年初夏の穀物が実るころ、スパルタ王アルキダモスの率いるペロポネソス同盟軍がアテネの領土に侵入して戦端が開かれた。翌年も続いて敵軍の侵入を受けた直後、強制疎開で狭い市域に人口が集中して非衛生な生活を余儀なくされていたアテネ住民の間に悪疫が流行し始め、前429年にはペリクレス自身も病没するなど、全市民の実に3分の1がその病魔の犠牲となったといわれる。帝国支配を放棄できないアテネとしてはペリクレス没後も彼の戦略を継承するほかなく、民衆扇動家として悪名高いクレオンはそうした意味でペリクレスの忠実な後継者であった。前425年にこのクレオンの積極作戦が奏功して、ペロポネソス半島南西部ピロス湾岸の小島スファクテリアでスパルタ軍を投降させ、スパルタはその国家体制の体質的弱点であるヘイロタイの反乱の再発を恐れて平和を望み、連年繰り返してきたアテネ領侵入も中断するに至った。だがアテネはキテラ島攻略など、なおいっそう積極攻勢に出たので、スパルタの将ブラシダスはアテネ陣営同盟諸国の切り崩しをねらって北ギリシアに作戦を展開、相当の成功を収めた。前422年アンフィポリスの戦いでクレオン、ブラシダスがともに戦死して、翌年「ニキアスの平和」とよばれる休戦条約が両陣営間に結ばれた。
だが、この平和は長くは続かず、交戦と外交戦略が展開されるなかで、アテネはアルキビアデスの積極拡大政策をいれて前415年にシチリア遠征を敢行したが、2年後に遠征軍は壊滅した。その後はペロポネソス同盟軍が恒常的にアテネ領の一角を占領するとともに、ペルシア提供の軍資金で海軍力を増強してイオニア方面の海域に出動し、アテネ陣営同盟諸国の離反を誘った。帝国支配がすでに有名無実と化していたアテネは、前405年のアイゴスポタモイの戦いに敗れて制海権を完全に失い、翌年スパルタに降伏した。アテネ市の徹底破壊を主張するコリント、テーベの意向を抑えて、スパルタは長城の撤去、大半の軍船の引き渡し、デロス同盟の解体を降伏の条件とした。
[馬場恵二]
『トゥーキュディデース著、久保正彰訳『戦史』全3冊(岩波文庫)』
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前431年から前404年にかけて,アテネとスパルタおよびそれらの同盟市の間で行われた大戦争で,ギリシア本土の衰退に重大な影響を及ぼした。初めの6年はスパルタ軍が毎年アッティカに侵入した。前425年アテネ軍がメッセニアのピュロスを占領してスパルタを脅かしたが,アテネの主戦派のクレオンが前422年に戦死してから和平の機運が動き,前421年ニキアスの和となった。しかしやがてまた開戦となり,アテネは前415~前413年,無謀なシチリア遠征に惨敗して海軍力を失い,スパルタはさらにペルシアの援助を得て海上でこれに追い討ちをかけた。前405年アイゴスポタモイの戦いに敗れたアテネは,海上から封鎖されて翌年降伏した。デロス同盟はすでにこれまでに崩壊していた。
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…アイゴスポタモイAigospotamoi(アエゴスポタミAegospotami)とは〈ヤギの川〉の意。トラキアのケルソネソス半島東岸を流れる川で,ペロポネソス戦争末期の前405年,スパルタ艦隊とアテナイ艦隊がこの地に布陣。食糧調達のため上陸,散開したアテナイ軍はリュサンドロス率いるスパルタ軍の急襲にあい,大敗北を喫した。…
…エフィアルテス暗殺ののちは,ペリクレスがキモンあるいはその後継者トゥキュディデス(同名の歴史家とは別人)と争い,彼らを陶片追放に付して,前443年ついに民主派に最終的勝利をもたらし,以後,前429年その死にいたるまでペリクレスによる単独指導の時代が続く。 ペリクレス時代を頂点とするアテナイの繁栄に転機をもたらしたのが,ペロポネソス戦争であった。敗戦の結果,アテナイはデロス同盟を失い,国内的にも市民数の減少や田園の荒廃など未曾有の打撃を被るが,前4世紀に入ると急速な立直りを見せ,とりわけ前377年にはアテナイ第二海上同盟を結成して,再びエーゲ海に覇を唱えるにいたる。…
…ペロポネソス戦争の最初の10年間(前431‐前421)の戦いをいう。アテナイ,スパルタ両陣営とも互いに相手の勢力圏に対してそれぞれ海上,陸上から攻撃するという戦略をとった。…
…奴隷制もまたこの世紀には鉱工業を中心に大いに発展し,奴隷入手も比較的容易になり,小農民でも1~2人の奴隷をもつことができるようになった。このようにアテナイが海上支配の利益を独占して繁栄したことは,同盟諸市の不満を大きくするとともに,ペロポネソス同盟の盟主スパルタの嫉妬と反目をつのらせることとなり,ついに両勢はギリシア世界を二分して衝突することとなった(ペロポネソス戦争。前431‐前404)。…
…ペルシア戦争では大部隊を派遣して各戦いに参加する。しかし戦後のアテナイの急速な興隆とその西方への介入はコリントスの脅威となり,ケルキュラとポテイダイアをめぐるアテナイとの争いは,前431年に勃発したペロポネソス戦争の直接的原因となった。ペロポネソス戦争後は,ギリシアの覇権を握ったスパルタに対抗するために一転してアテナイ,テーバイ,アルゴスと結託,これがコリントス戦争の因となる。…
…スパルタは前460年代には大地震に端を発したヘイロータイの大反乱に難渋し,また前450年代にはアテナイと戦火を交えた。前446年には両国は30年の和約を結んだが,アテナイの脅威に直接さらされたコリントスやメガラに押されて,スパルタは開戦を決定し,ペロポネソス戦争が始まった(前431)。戦争の後半にはスパルタ勢はアッティカに砦を築いて常駐し,ペルシアの財力で海軍を強化してアテナイを破った。…
…トゥキュディデスが,アテナイと,スパルタを中心とする反アテナイ陣営のポリスとの間で戦われた,いわゆるペロポネソス戦争(前431‐前404)をつづった歴史記述。自身の目前でおこなわれた大事件の記録をみずから取り,かつひとつの全体に構成していった,言葉の本来の意味における同時代史である。…
…古代ギリシアの代表的歴史家の一人。ペロポネソス戦争を扱った未完の史書《戦史》の著者。オロロスを父としてアテナイの権門に生まれる。…
…スパルタの将軍。ペロポネソス戦争に参加,前424年キュテラ島を奪われスパルタが劣勢にあったとき,トラキアへ遠征した。彼はアンフィポリスをはじめアテナイの重要拠点を奪って形勢を逆転し,翌年休戦条約締結後もスキオネなどをアテナイから離反させた。…
※「ペロポネソス戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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