日本大百科全書(ニッポニカ) 「コリント」の意味・わかりやすい解説
コリント(都市国家)
こりんと
Kórinthos
古代ギリシア、ペロポネソス半島北東端にあったドーリス人のポリス(都市国家)。わが国ではコリントと呼び習わされるが、正しくはコリントスという。英語名はコリンスCorinth。ミケーネ時代にはイオニア人が居住したが、紀元前11世紀に、おそらくアルゴスから遠征したドーリス人の支配に移ったと考えられる。前8世紀にポリスを形成し、コリント地峡を抑える海陸交通の要地を占め、サロニコス湾にケンクレアイ、コリント湾にレカイオンの港を擁し、商工業ポリスとして発展した。
前8世紀後半からバッキス氏族が政権を独占して寡頭政を敷き、そのもとで前733年にシラクーザとケルキラに植民市が建設されたが、前657年ごろキプセロスがバッキス氏族を倒して僭主(せんしゅ)となった。キプセロス家3代の支配下で、陶器の生産や植民市の建設を中心に繁栄の頂点に達したが、前580年ごろ僭主政は崩壊して穏和寡頭政になった。前6世紀後半にペロポネソス同盟に加盟したが、アテネとも友好を維持し、前480~前479年のペルシア戦争ではペルシア軍と戦った。ペルシア戦争後アテネとの関係が悪化し、それが前431年のペロポネソス戦争勃発(ぼっぱつ)の大きな伏線になったが、前4世紀初めのコリント戦争では、逆にアテネと組んでスパルタと戦った。前337年にコリントにおいて結成されたヘラス連盟に加盟し、前243年にアカイア同盟に加わり、前196年にふたたびこれに参加して、その中心となったが、前146年にローマの将軍ムンミウスの手で徹底的に破壊された。前44年カエサルによりローマの植民市として再建され、急速に繁栄を回復し、前27年ローマの属州アカイアの首府となり、後1世紀にはキリスト教の使徒パウロやローマ皇帝ネロが訪れた。
今日のコリント市は、古代のコリントの地に存続した町が地震で大損害を受けた1858年に、その北東約5.6キロメートルのコリント湾岸に新しく建設された。人口3万2800(2001推計)の地方都市で、コリンティア県の県庁所在地である。
[清永昭次]
コリント(Lovis Corinth)
こりんと
Lovis Corinth
(1858―1925)
ドイツの画家。東プロイセンのタピアウで生まれる。ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で教育を受け、その後ミュンヘンとアンベルスで絵画を修業する。1884~87年パリのアカデミー・ジュリアンでアドルフ・ブーグローに学んだ。80~90年ミュンヘン、以後は主としてベルリンで活躍。ドイツ印象主義を代表する画家の一人で、ベルリン分離派同盟の有力メンバーであったが、晩年には表現主義的な激しさが加わっている。代表作は『ミュンヘンのアトリエからの眺め』(カールスルーエ芸術ホール)。また、出生地には彼の美術館がある。オランダのザンクト・ボールトで没した。
[野村太郎]