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ポル・ポト Pol Pot

翻訳|Pol Pot

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ポル・ポト
Pol Pot

[生]1925/1928.5.19. コンポンチャム
[没]1998.4.15. カンボジア北部国境付近
カンボジアの政治家。別名サロット・サル Saloth Sar。プノンペン工科大学卒業後,フランスへ留学。 1952年帰国後,プノンペンの私立学校教師。 60年カンプチア共産党の創立に参加,63年には書記長に就任,イエン・サリ,ソン・センらとともに地下に潜行,赤いクメールの中心人物として反政府運動を展開。 70年右派ロン・ノル将軍のクーデターで失脚したシアヌークと提携し,反米=反ロン・ノル闘争を指導,75年4月ロン・ノル政権打倒に成功した。翌 76年「民主カンプチア」の首相として農本主義的共産主義改造を強行,その恐怖政治のため国民の支持を失い,78年 12月にはベトナムの介入を招き,ポル・ポト政権はタイ国境地帯に撤退,79年には首相を解任された。 85年の民主カンプチア軍最高会議議長兼総司令官退任後も,依然としてポル・ポト派軍の最高司令官であり,同派の最高指導者であったが,97年内部対立から身柄を拘束され,同派の人民裁判で終身刑を宣告されていた。 98年国境付近で死亡との情報があり,調査隊がチョンチャンガムという集落で遺体を確認した。

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百科事典マイペディアの解説

ポル・ポト

カンボジアの政治家。1940年代にホー・チ・ミンのもとで反フランス抵抗運動に参加。1953年フランス留学を終えて帰国,教師のかたわら反フランス地下活動に参加。1960年カンボジア共産党中央常任委員。
→関連項目カンボジアカンボジア人民党シアヌーク田英夫プノンペンフン・セン

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ポル・ポト
ぽるぽと
Pol Pot
(1925―1998)

カンボジアの政治家。コンポン・ソム州生まれ。1954~1963年サロト・サルの名で革命運動に参加。1960年カンボジア共産党創設とともに中央委員、1963年書記長に就任。1975年のプノンペン解放とともに全権を掌握、1976年シアヌークにかわり新生の民主カンボジアの首相となる。「全面的、徹底的な社会革命」と「社会浄化」の名のもとに、大量粛清を含む残虐な内政と強硬な外交を推進。1978年末のベトナム侵攻で反撃され首都を放棄、ゲリラ戦に転じる。国際的批判の高まりに直面して1979年、首相を辞し国民軍最高軍事委員長に転出、1985年8月高等国防研究所長の閑職に退いた。1990年代に入り、カンボジアの和平が進行した結果、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)内部の対立が激化し、1997年6月にポル・ポトは身柄を拘束され、7月に人民裁判にかけられ終身刑の判決を受けた。その後、民主カンボジア時代の大量虐殺の責任者として国際法廷にかけられる動きが具体化するなかで、1998年4月突然死去が発表された。
 カンボジア内のポル・ポトを中心とする勢力はクメール・ルージュとよばれ、1991年パリ和平協定でカンボジア紛争が終結した後、1993年に実施された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC(アンタック))監視下の総選挙をボイコット、新カンボジア王国に敵対する唯一の勢力となった。1996年元ポル・ポト政権副首相イエン・サリ派が大量投降、その後も派内の内紛が続いた。1997年独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC(フンシンペック))のラナリットによる元クメール・ルージュ幹部キュー・サムファン抱き込み工作がさらに内紛を激化させ、ポル・ポト自身も対抗勢力に投降したと伝えられた。1997年7月、クメール・ルージュはラナリットからのフン・セン派(カンボジア人民党)に対する統一戦線の呼びかけに応じる一派と、FUNCINPEC、カンボジア人民党双方にあくまで抵抗すべしとのポル・ポトらに分裂した。[黒柳米司]
『小倉貞男著『ポル・ポト派とは?』(1993・岩波ブックレット) ▽D・P・チャンドラー著、山田寛訳『ポル・ポト伝』(1994・めこん)』

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20世紀西洋人名事典の解説

ポル・ポト
Pol Pot


1928.5.19.(1925.説もあり) -
カンボジアの政治家。
元・カンボジア首相。
コンポントム省生まれ。
別名サロト・サル(Salot Sar〉。
1949〜53年パリに留学。帰国後、反仏反日闘争に参加。’60年カンボジア共産党中央委員会常任委員、’63年党書記などを経て、’70〜75年党軍事委員長を務め、解放闘争を指揮。’75年のプノンペン解放とともに全権を掌握、翌’76年シアヌークに代わり新生民主カンプチアの首相。数百万人にのぼる大量虐殺を行ったほか、強硬な外交を推進するが、’78年末のベトナム侵攻でプノンペンを追われ、ゲリラ活動に入る。’79年首相を辞任し、民主カンボジア軍最委員会議長、最高司令官を兼任。’85年には高等国防研究所所長となる。89年同所長を辞任。第一線から引退後もポル・ポト派に隠然たる影響力を持っているといわれる。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

367日誕生日大事典の解説

ポル・ポト

生年月日:1928年5月19日
民主カンボジア軍最高会議議長,総司令官
1998年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典内のポル・ポトの言及

【インドシナ戦争】より

…したがって,75年の解放は国内的には政治的・軍事的闘争の終焉,国外的にはアメリカの東南アジア政策の完全な失敗を意味するが,国内の経済的・社会的闘争は戦後にいたってはじめて顕在化する。76‐79年には大量のベトナム人が難民として流出したり,放逐されたりし,カンボジアではポル・ポト政権によって民衆の大量虐殺が行われた。また植民地分割統治期の民族差別に基礎をおく国家間対立は,78年以来のベトナム・カンボジア戦争,79年以降のカンボジア内戦にいたった。…

※「ポル・ポト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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