メンデル(読み)めんでる(英語表記)Gregor Johann Mendel

デジタル大辞泉 「メンデル」の意味・読み・例文・類語

メンデル(Gregor Johann Mendel)

[1822~1884]オーストリアの生物学者・修道院司祭。1856年からエンドウを材料として遺伝の実験を行い、メンデルの法則発見し、1865年に論文「植物雑種の実験」として発表。死後の1900年に評価を受けた。晩年は教会課税法に反対して闘った。

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精選版 日本国語大辞典 「メンデル」の意味・読み・例文・類語

メンデル

  1. ( Gregor Johann Mendel グレゴール=ヨハン━ ) オーストリアの修道司祭、遺伝学者。ブリュン修道院院長。エンドウの交雑に関する実験からメンデルの法則を発見、現代遺伝学の道を開いた。主著「植物雑種の研究」。(一八二二‐八四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「メンデル」の意味・わかりやすい解説

メンデル
めんでる
Gregor Johann Mendel
(1822―1884)

オーストリアの修道院僧、生物学者。近代遺伝学の創始者。7月20日モラビア地方の小村ハイツェンドルフの小さな果樹園をもつ貧しい農家に生まれる。苦学しながらオルミュッツ(現、チェコオロモウツ)の短期大学を卒業し、ブリュン(現、チェコのブルノ)の聖トマス修道院に推薦された。この地方の芸術、科学の中心だったこの修道院で、植物学や数学物理学への能力が開花し、近くの中学校の代用教員も務めるようになった。聖職者より教師のほうが適しているとみられたメンデルは、周囲の人々の勧めで正教員になるための検定試験を受けたが合格しなかった。メンデルが修道院の庭の一隅を借りて、エンドウの遺伝研究を開始したのは、検定試験に不合格になってからまもなくのことであった。

 このエンドウの研究(1856~1862)は1865年に「植物の雑種に関する実験」と題する論文にまとめられ、ブリュンの自然研究会の席上で発表された。翌1866年その会の紀要に印刷され、各地の大学、研究所に送られたが、その重要性を認める者はなく、発表後35年を経た1900年にようやく、オランダド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの3人が、それぞれ独立にこの論文の重要性に気づき世に紹介した。

 メンデルが発見した遺伝法則は、のちに「分離の法則」「顕性の法則」「独立の法則」などにまとめられ、その研究方法とともに、近代遺伝学の出発点となった。

 メンデルの研究が長い間無視された理由には、彼が大学で生物学を専攻した研究者ではなく、一介の修道院僧にすぎなかったことへの偏見もあるが、生物の遺伝形質を全体としてとらえず、個々の単位形質の集まりとしてとらえたり、実験結果の処理に数学的方法を導入するといった斬新(ざんしん)な研究方法が理解されなかったことや、当時の学界がC・ダーウィンの進化論の影響などで遺伝より変異に関心を集めていたことなどがあげられる。メンデルが教えを請うていた当時の植物学界のリーダーの一人、ミュンヘン大学のネーゲリが、自分の変異研究の材料にしていたミヤマコウゾリナに実験対象を変えるようメンデルに指示したことにもそれが表れている。

 メンデルは、交配実験のやりにくいミヤマコウゾリナの研究で目を悪くしたうえ、1868年の選挙で聖トマス修道院の院長に選ばれ、雑用に追われる身となり、遺伝研究を続けることができなくなった。1874年オーストリア議会が修道院からも徴税する法律を制定、彼はその反対闘争に立ち上がり、死ぬまでの10年間はその撤回のための闘いに全精力を傾けた。政府の懐柔策と闘ううちに、周囲からも裏切られ、孤立し、しだいに人を信じない気むずかしい老人となり、1884年1月6日この世を去った。

[真船和夫]

『フーゴー・イルチス著、長島礼訳『メンデル伝』(1960・東京創元社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「メンデル」の意味・わかりやすい解説

メンデル
Gregor Johann Mendel
生没年:1822-84

オーストリアの修道士で遺伝研究家。ハインツェンドルフ(現,チェコスロバキア領ハインツァイス)生れ。ライプニク(現,リプニック)のピアリスト会学校,トロッパウのギムナジウムを経て,オルミュッツ大学哲学学校入学(1840)。修道院に入った翌年(1844)からブリュン神学校聴講生。ズノイモのギムナジウム代用教員(1849),ウィーン大学留学(1851)。ブリュン実科学校教師(1854),修道院長(1868)。院長のとき,重税反対運動を行う。1854年より当時問題になっていた種の変化性に関心を示し植物の交雑実験の準備にとりかかり,56年より実施,その結果を65年に発表,翌年《植物雑種の研究Versuche über Pflanzenhybriden》として《ブリュン自然科学会誌》第4巻に掲載。しかし,反響は少なく,1900年に至るまでその価値は認められなかった。彼のエンドウを用いた研究は先行者たちのものと異なり,交雑結果を統計的に処理しただけでなく,物理学の方法としての要素分析法を採用し,植物の形質が世代を経て伝えられる様子を分析,そこに遺伝現象をになう実体(今日でいう遺伝子)の存在を明らかにした。ド・フリースたちによるメンデルの法則再発見以後,遺伝子概念は成長をとげ,その考えを中心とする遺伝学はメンデリズム(メンデル遺伝)と称され,のちの研究に影響を与えた。メンデルはこの他,気象に関する研究や養蜂なども行っている。ブリュン(現,ブルノ)の修道院はメンデル記念館として保存されている。伝記としてはイルティスH.Iltisの《メンデル伝》が有名。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メンデル」の意味・わかりやすい解説

メンデル
Mendel, Gregor Johann

[生]1822.7.22. ハインツェンドルフ
[没]1884.1.6. ブルノ
オーストリアのアウグスチノ会の司祭,遺伝の基本法則を発見した植物学者。ブルノの修道院に入り (1843) ,司祭となる (47) 。自然科学に興味をもち,独学していたが,ウィーン大学で数学,物理学,生物学などを学ぶ機会を得た (51~53) 。 1856年に修道院の植物園でエンドウの交雑実験を始め,63年まで続け,1万株以上ものエンドウを扱って結果を統計的に調べ,今日メンデルの名を冠して呼ばれる遺伝法則を発見した。 65年,これを,アマチュアの研究者たちによって構成されていたブルノ自然科学協会の例会で発表。翌年,同協会の紀要第4巻に『雑種植物の研究』と題する 45ページの論文にまとめて載せ,別刷りなどを各地の大学,図館書に送ったが,反響はなかった。以前から文通で指導を受けていた K.ネーゲリからも正当には評価してもらえず,1900年に,H.ド・フリース,C.コレンス,E.チェルマックの3人によって,それぞれ独立に再発見されるまで,彼の研究は忘れ去られることになる。彼はその後,実験材料をミヤマコウゾリナに変え,遺伝法則の妥当性を検討するが,この植物では思わしい結果が得られず,また 1868年には修道院長に選ばれ,修道院に対する課税問題をめぐるオーストリア政府との抗争で多忙となったため,交雑実験に専念することはなくなった。彼以前にも,C.ゲルトナー,C.ノーダンらによって植物の交雑実験は行われ,分離の現象も気づかれてはいたが,メンデルの研究は,単一の対立する形質に絞って実験結果を定量的に取扱っている点でそれまでの研究とは異なっており,これが彼を法則の発見に導いたとみられている。

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百科事典マイペディア 「メンデル」の意味・わかりやすい解説

メンデル

遺伝学の基礎を築いたオーストリアの生物学者。ブリュンの修道院の司祭や実科学校の代用教員をするかたわら,修道院の庭でエンドウの遺伝を研究。遺伝現象の法則性と,形質を子孫に伝える遺伝物質の存在を明らかにした,いわゆるメンデルの法則を1865年に発表したが,その真価は1900年まで世に認められなかった。主著《雑種植物の研究》。
→関連項目ケールロイター雑種植物の研究

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旺文社世界史事典 三訂版 「メンデル」の解説

メンデル
Gregor Johann Mendel

1822〜84
オーストリアの植物学者
修道院生活のかたわら,1856年からエンドウマメの交配実験を行い,遺伝に関する「メンデルの法則」を発見し,65年に発表した。しかしその真価が認められたのは,死後の1900年の再発見によってであった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「メンデル」の解説

メンデル
Gregor Johann Mendel

1822~84

オーストリアの神父にして生物学者。長年にわたり薬草園修道院でエンドウを組織的に栽培し,その結果から「メンデルの遺伝法則」を発見した。1865年口頭で,翌年論文で発表。

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世界大百科事典(旧版)内のメンデルの言及

【遺伝】より

…核に存在する遺伝子を核内遺伝子または単に遺伝子というのに対し,細胞質中の遺伝子を細胞質遺伝子またはプラズマジーンという。核内遺伝子およびこれに支配される形質は原則として両親性の遺伝を行い,メンデルの法則に従って後代に伝わる。細胞質遺伝子およびこれに支配される形質は原則として母親からだけ後代に伝わり,単親性の細胞質遺伝をする。…

【遺伝学】より

…同一個体の違った組織や異種属の個体の相同な組織を構成する細胞は形態や機能が互いに多少とも異なるし,単一の細胞についても一つの細胞世代の間にいろいろ形や機能が変わる。また,同種や異種の個体が集合した種々の集団,すなわち同種個体よりなるメンデル集団,属や科のような分類学的集団,さらには群集のような生態学的集団のいずれもが,同レベルの集団間にその広がりや構成に関して差を示すばかりでなく,その一つ一つが年々歳々分布や構成を変化させてゆく。 このように,細胞・個体あるいは集団間にみられる差異,および同一の細胞・個体あるいは集団が経時的にみせる変化の両方を含めて変異variationとよぶ。…

【遺伝子】より

…遺伝形質を規定する因子。
[メンデル因子から遺伝子へ]
 G.J.メンデル(1865)はエンドウの子葉の色の緑と黄というような対立的な形質を支配する遺伝因子として対立する要素を想定し,両親由来のこのような対立要素,例えばAa,をもつ雑種が配偶子を形成するとき,Aaが分かれて別々の配偶子に入り,これが子どもに伝えられてその形質を規定すると考えた。1900年のメンデルの遺伝法則の再発見以降,多くの生物でこのような対立形質の遺伝様式が盛んに研究されるようになり,それぞれの形質に対応してそれを規定する仮想的な遺伝因子が設定されてきた。…

【遺伝情報】より

…子が親に似るという現象を説明するために,親から子に伝わる情報があるという考えは,古くから存在したが,遺伝情報という概念が,科学的な意味で形をなしたのはメンデルの法則以後と考えてよい。〈独立の法則〉〈分離の法則〉〈優劣の法則〉の確立によって,両親から伝わった遺伝情報が,子の世代で実際に発現するかどうかにかかわりなく,保存され,次世代に伝えられることが明らかになった。…

【遺伝的組換え】より

…親から子に,または個体から個体に遺伝子が伝達される時,遺伝子の組合せが変わること。例えば,G.J.メンデルは,エンドウで丸くて黄色の豆をつける植物としわが寄った緑色の豆をつける植物との交配の結果,雑種2代目に親と同じ形質の植物だけではなく,丸くて緑色の豆をつける植物やしわが寄った黄色の豆をつける植物が生じることを見いだした(1865)。つまり,豆の形と豆の色という形質,ひいてはそれぞれの形質を決定している遺伝子の組合せが変わっていることを発見した。…

【生物学】より

…形質間に優劣の差異のあることとか形質の分離に,すでに気づいた者もあった(ノーダンC.Naudin)。メンデルはそうした背景のもとにエンドウの交雑実験とその統計処理から,遺伝を担う単位を考えて(《植物雑種の研究》1866),現代遺伝学の基礎を築いた。一つにはメンデルの再発見と,もう一つには生理学や発生学から微生物学まで各方面にわたる実験生物学の高まりが,世紀の変り目を迎えての生物学の基調を定めた。…

【突然変異】より

…ところで,ダーウィンは種内の変異が親から子に伝わることをある程度は認識していたが,その伝達の様式を明確にできなかったし,変異の由来を明らかにもしなかった。一方,G.メンデルはエンドウの交配実験によって,生物の表現型が形質という単位に分けられること,そしてある形質については親から子に規則的に伝わることを示した(1865)。そのような形質について,彼は形質を決定する因子(後に遺伝子と呼ばれるようになった)を想定し,それが変化することなく親から子に伝えられると考えたのである。…

【農学】より

…それよりしばらく後の,ドイツ人植物生理学者さらに農学者ともいうにふさわしいザックスJ.von Sachs(1832‐97)は,光合成を含めて,広く植物の全般にわたる生理学研究を行い,それを取りまとめた植物・作物生理学の祖述者となった。光合成の研究に対して遺伝・育種分野で見落とすことのできない研究成果は,イギリス人C.ダーウィン(1809‐82)の諸業績,とくに《種の起原》《飼養動植物の変異》やオーストリア人G.J.メンデル(1822‐84)のエンドウを材料とした〈植物雑種の研究〉である。
[ソ連]
 ソ連における現代農学創出にあたってまずあげるべきは,ダーウィンとならび称され,とくに植物生理の分野で業績をあげたK.A.チミリャーゼフ(1843‐1920)である。…

【優性】より

…またこのとき優性形質によって覆いかくされて現れない形質および遺伝子を劣性という。これらの用語は1865年エンドウを用いて遺伝の法則を発見したG.J.メンデルによって最初に用いられた。例えば花の色を支配する対立遺伝子についてそれぞれホモ(同型)なエンドウの赤花と白花の純系を交雑すると,雑種第1代F1(対立遺伝子についてヘテロ)はすべて赤花になり,赤花が白花に対して優性であることがわかる。…

※「メンデル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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