ヨハン(読み)ヨハン[ルクセンブルクけ](英語表記)Johann, Erzherzog von Österreich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヨハン」の意味・わかりやすい解説

ヨハン[ルクセンブルク家]
ヨハン[ルクセンブルクけ]
Johann von Luxemburg

[生]1296.8.10. ルクセンブルク
[没]1346.8.26. クレシー
ボヘミア王(在位 1310~46)。ボヘミア名ヤン。のちの神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子で,プシェミスル家断絶後ボヘミア王位についた。ボヘミア封建諸侯の反王権的行動に左右されて内政上は指導性を欠いたが,対外問題には積極的に介入ドイツ騎士団と対抗関係にあったポーランドの王位獲得には失敗したが,1327~31年にはシュレジエンを勢力下に収め,転じて 1330~33年にはロンバルディアの支配権をめぐって戦った。その後もヨーロッパ各地を転戦し,1346年百年戦争中のクレシーの戦いでフランス王フィリップ6世の側に立って戦死。治世にはフランス文化が流入する機会がつくられ,その子カルル1世(神聖ローマ皇帝カルル4世)時代の基礎がしかれた。

ヨハン[オーストリア大公]
ヨハン[オーストリアたいこう]
Johann, Erzherzog von Österreich

[生]1782.1.20. フィレンツェ
[没]1859.5.10. グラーツ
オーストリア大公,軍人。神聖ローマ皇帝レオポルト2世末子。対ナポレオン戦争では 1800年バイエルンのオーストリア軍司令官,01年チロル総督をつとめ,アウステルリッツの敗北後退役したが,09年再び軍隊に戻りイタリアのオーストリア軍司令官,15年にはライン方面軍司令官となった。戦後はシュタイエルマルクのグラーツに引退して研究生活をおくったが,国民的信望厚く,48年フランクフルト国民議会によって帝国摂政に選任された。 49年辞任。

ヨハン(堅忍公)
ヨハン[けんにんこう]
Johann, der Beständige

[生]1468.6.30. マイセン
[没]1532.8.16. シュワイニッツ
ザクセン選帝侯 (在位 1525~32) 。「毅然公」とも訳される。 M.ルターの保護者フリードリヒ3世 (賢公)の弟で,兄の統治を補佐したが,1525年に兄が没すると,選帝侯となり P.メランヒトンらの協力を得てザクセン選帝侯国にルター主義の領邦教会体制を打立てた。 31年シュマルカルデン同盟結成に尽力し,その指導者となった。

ヨハン[ザクセン王]
ヨハン[ザクセンおう]
Johann

[生]1801.12.12. ドレスデン
[没]1873.10.29. ピルニッツ
ザクセン王 (在位 1854~73) 。中部ドイツ勢力を集め,プロシアに対抗しようとし,1866年プロシア=オーストリア戦争でオーストリアと同盟,敗北後北ドイツ同盟に加入させられた。ダンテの『神曲』を翻訳し,学芸を奨励した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヨハン」の意味・わかりやすい解説

ヨハン
よはん
Johann, Erzherzog von Österreich
(1782―1859)

ドイツ皇帝レオポルト2世の第13子。ナポレオン戦争に活躍したが、宮廷の自由主義者としてチロール、ついでシュタイアーマルクにあって民衆とともに生き、1848年三月革命に際してはフランクフルトにおいて帝国摂政Reichs-verweserに選ばれた。49年辞任後もアルペン地方、ことに王家発祥の地スイスを愛し、地方文化や公益事業に尽くし、民衆から「無冠のアルプス王」とよばれた。

[進藤牧郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android