日本大百科全書(ニッポニカ) 「モルガン財閥」の意味・わかりやすい解説
モルガン財閥
もるがんざいばつ
アメリカ最大の利益集団(インタレスト・グループinterest group)の一つ。ヨーロッパのロスチャイルド家と並び称される国際的な金融財閥。モルガン財閥の創始者は、アメリカ銀行史上初の近代的なアングロ・サクソン型の銀行であるモルガン商会を設立したジョン・ピアポント(J・P)・モルガン。モルガン家の始祖は1636年にイギリスのウェールズから移住してきたマイルス・モルガンにまでさかのぼる。ジョン・ピアポント・モルガンの祖父までの3世代(ジョゼフ1~3世)は、コネティカット州ハートフォードに住み、職工、農民から身をおこし、コーヒー店、旅館、不動産、保険業へと手を広げて財をなし、ジョン・ピアポントの父ジュニアス・スペンサー・モルガンJunius Spencer Morgan(1813―90)の代になって銀行業に携わり始めた。
[奥村皓一]
金融支配への道
ジュニアスはノーウィッチ大学を卒業後ニューヨークで金融業を学び、ボストンで金融仲介業を始めた。1854年にはロンドンの国際取引銀行ジョージ・ピーボディの共同経営者となり、設立者ピーボディGeorge Peabody(1795―1869)の引退後は「J・S・モルガン商会」として25年間経営を続けた。
一方、ジュニアスの息子ジョン・ピアポントはドイツのゲッティンゲン大学を卒業後、1856年に父ジュニアスの銀行に入行する。その後、ニューヨークにあったジョージ・ピーボディのアメリカ支店で修行を積み、同地でJ・S・モルガン商会の子会社J・P・モルガン商会J.P. Morgan & Co.を設立した。彼は銀行家のチャールズ・H・ダブネーやアンソニー・J・ドレクセルAnthony Joseph Drexel(1826―93)とパートナーを組み、南北戦争後のアメリカ産業資本主義の成長期に適合する、近代的な銀行システムを構築した。とくにフィラデルフィアの一流金融業者ドレクセルとの同盟は、前時代的な当時最大の銀行ジェイ・クックと戦うのに有効であった。モルガン商会最大の事業は、1870年のプロイセン・フランス戦争(普仏戦争)時、フランス政府に対して5000万ドルの国際協調融資を組んだことであり、以後、イギリスの対米投資の多くはモルガン系銀行を通してなされるようになった。
南北戦争終結とともにアメリカ各地で鉄道建設の機運が高まり、1870年代末にC・バンダービルト、J・グールド、J・フィスクなど冒険的企業家が鉄道建設に進出すると、モルガンはヨーロッパとくにイギリスから独占的に輸入した資金を融資して、1890年代までに多くの主要鉄道会社を支配するに至った。鉄道建設への投資に続き、エジソン電灯会社、ベル電話会社と人的・資本的関係を結び、後の巨大独占企業ゼネラル・エレクトリック(GE)、AT&Tへと育て上げたことでも知られる。1890年、J・P・モルガン商会は父ジュニアスの没後、その事業を引き継いでヨーロッパとアメリカで展開されていたモルガンの事業を統合した。鉄鋼業への投資が本格化するのは1898年からで、カーネギー・スチールとフェデラル・スチールを結びつけて史上初の10億ドル会社USスチールを誕生させたのは1901年のことであった。
さらに、J・P・モルガンはG・F・ベーカーのファースト・ナショナル・バンクと資本提携して、H・P・デビソンのバンカース・トラストを傘下に収めた。そのベーカーはロックフェラー系のチェース・ナショナル銀行(チェース・マンハッタン銀行の前身)の過半数株式を所有していたため、J・P・モルガンの間接支配も及ぶこととなった。1907年、J・スティルマンのナショナル・シティ銀行とも人的・資本的関係を結び、かくしてモルガンを中心とした金融独占体制が完成した。
ジョン・ピアポントの後を継いだJ・P・モルガン2世は父親ほどの旺盛(おうせい)な事業欲はなかったが、1920年代のモルガン金融資本隆盛の最絶頂を築き、公益事業、鉄道、鉄鋼、電機、放送、自動車などの超一流企業への融資と人的・資本的結合を広げた。英仏独をはじめとする各国政府の国債引受けや融資も拡張し、世界の金融の中心となったウォール街の証券・資本取引の王者として最大の影響力を誇った。
[奥村皓一]
モルガンの没落
だが、1929年の大恐慌を機にモルガン金融独占への批判が強まり、F・ルーズベルト政権下のニューディール政策における1933年銀行法(グラス‐スティーガル法Glass-Steagall Act)で、J・P・モルガン商会は商業銀行のJ・P・モルガンと投資銀行のモルガン・スタンレーMorgan Stanley & Co.(後のモルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター)に分割されることとなり、モルガン集団に冬の時代が訪れた。
モルガンの第二次世界大戦後における復活は1950年代からで、1959年にJ・P・モルガンはニューヨークの商業銀行ギャランティ・トラストGuaranty Trust Co.と合併し、モルガン・ギャランティ・トラストMorgan Guaranty Trust Co. of New Yorkとなり、1969年には持株会社のJ・P・モルガンが設立された。こうしてモルガン集団は、IBMやAT&T、メルクなど成長軌道にあった高度技術産業、航空宇宙・軍需を中心とするカリフォルニア集団、石油・ハイテク・軍需の南部集団、メロン集団(財閥)などとの同盟を図りつつ、1960年代に絶頂期を迎えるロックフェラー集団に対抗しようとした。その結果、1980年代までに、投資銀行のモルガン・スタンレーは、ブルーチップスblue chipsとよばれる超優良企業群の一つにまで回復した。
しかし、「最良の顧客と最良の事業を行う」というジョン・ピアポント・モルガンの教訓を貫くあまり、金融変革のさなかで拡大する大衆市場をつかめないまま、モルガン金融機関の成長は1990年代後半に減速した。そして、1999年12月のグラス‐スティーガル法撤廃から9か月後の2000年9月、J・P・モルガンはロックフェラーのチェース・マンハッタンに吸収合併されることとなった(合併期日は2000年12月31日)。独占的な金融集団として100年以上にわたりアメリカ金融界をリードしてきたJ・P・モルガンは、チェースの軍門に下り、「モルガンの没落」The fall of Morganという評価がウォール街でなされるようになった。しかし、チェース・マンハッタンとJ・P・モルガンの合併による新会社JPモルガン・チェースJPMorgan Chase & Co.の発足は、国境を越えた経済活動が活発化するなか、金融提携によるロックフェラーとモルガンの新たなグローバル戦略として規定することもできる。
[奥村皓一]
『ロン・チャーナウ著、青木栄一訳『モルガン家――金融帝国の盛衰』上下(1993・日本経済新聞社)』