ベーカー(Chet Baker)
べーかー
Chet Baker
(1929―1988)
アメリカのジャズ・トランペット奏者、歌手。本名チェズニー・ヘンリー・ベーカーChesney Henry Baker。オクラホマ州エールに生まれ、生後まもなくオクラホマ・シティに移り10歳まで過ごす。1940年、一家でロサンゼルス郊外グレンディールに移住。父親はギターの弾き語りで、地方ラジオ局にヒルビリーの番組をもつ。12歳で教会の合唱隊に入り、13歳になると父からトロンボーンを買い与えられる。高校時代にトランペットに転向し、独学で奏法を身につける。
46年徴兵されベルリン駐在部隊の軍楽隊に入隊。このときトランペット奏者ディジー・ガレスピーの演奏をレコードで聴き驚嘆する。48年除隊後、ロサンゼルスのエル・カミノ・カレッジで音楽理論を習得、ファッツ・ナバロFats Navarro(1923―50)、マイルス・デービスらビ・バップ・トランペッターを聴きあさる。再度軍隊に入隊しサンフランシスコの軍楽隊で技術を習得。除隊後ロスに戻りプロ・ミュージシャンとしてクラブに出演。
52年ビ・バップの創始者、アルト・サックスのチャーリー・パーカーがロサンゼルスを訪れた際、オーディションで共演者に選ばれる。同年、バリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンと、当時としては珍しい「ピアノレス・カルテット」を結成し、これが好評を呼ぶ。53年自らのバンドを結成、ジャズ専門誌『ダウン・ビート』Down Beatの国際批評家投票による新人賞に選ばれ、そして翌54年の読者投票では1位に選出され、雑誌『タイム』にも取り上げられる。55年初のヨーロッパ・ツアーを行い、各地のコンサートで絶大な人気を博し、翌56年のボーカルをフィーチャーしたアルバム『チェット・ベイカー・シングス』は彼の名声を決定的なものにするが、57年薬物中毒の治療のため療養所生活を余儀なくされる。同年秋ニューヨークに活動拠点を移すが、59年薬物事件で逮捕され、釈放後単身イタリアに向かい、60年同地にて再度薬物で逮捕、64年アメリカに戻る。
70年薬物がらみの事件で暴漢に襲われて歯を折られ演奏活動を中断、生活保護を受ける。73年前歯を入れ歯にして楽器が吹けるようになり、ニューヨークで16年ぶりにクラブに出演、翌74年カーネギー・ホールでマリガンとおよそ15年ぶりの再会セッションを果たし、75年には11年ぶりにヨーロッパで演奏を行うなどジャズ・シーンへの復帰をファンに印象づける。1970年代後半から80年代にかけスティープル・チェース、クリス・クロスといったヨーロッパ・レーベルに多くの演奏を残し、日本での人気も高まり、86年(昭和61)来日公演を行う。88年ホテルの2階から転落事故死する。死後彼のドキュメンタリー映画『レッツ・ゲット・ロスト』(1988。監督ブルース・ウェーバー)が公開される。
そのほかの代表作に『チェット・ベイカー・イン・ニューヨーク』(1958)、『チェッツ・チョイス』Chet's Choice(1985)がある。彼のトランペット奏法は、マイルスの影響を受けたビブラートをかけないストレートなものだが、そこに込められた表現の深さは彼自身の体験の深さに由来している。また、ボーカルも技巧を超えた境地に達した存在感の確かさを感じさせるものである。
[後藤雅洋]
ベーカー(Anita Baker)
べーかー
Anita Baker
(1958― )
アメリカのロック・シンガー。オハイオ州トレドに生まれる。1980年代、「クワイエット・ストーム」(メローで美しいメロディをもつリズム・アンド・ブルース)や「アダルト・コンテンポラリー」(大人向けの穏やかなロックやソウル・ミュージック)といった音楽スタイルが流行したが、この流行の頂点に立ち活躍した黒人女性シンガーである。
若いころからゴスペル合唱隊に加わり、同時にエラ・フィッツジェラルドやカーメン・マクレエ、ナンシー・ウィルソンNancy Wilson(1937―2018)といったジャズ系女性ボーカリストに熱中し、16歳のときには、デトロイト近辺のバンドに加わってプロ・シンガーとして活動していた。地元の人気バンド、チャプター8に加わりレコード・デビューしたもののうまくはいかず、一時はほかの職業についたこともあった。その後ソロ・シンガーとしてふたたび活動を始め、1983年、初アルバム『ザ・ソングストレス』を発売する。
1980年代のアメリカ音楽は、ラップ・ミュージックに代表されるような若者たちによる激しい革新運動が広範な支持を得る反面、深夜のラジオから流れるリラックス・ミュージック、クワイエット・ストームやアダルト・コンテンポラリーが大きな市場をもつまでになっていた。ジャズの洗練を背景に、感情の起伏を抑えゆったりと大人の歌を歌えるシンガーとして、ベーカーは待ち望まれていた存在だった。
1986年のアルバム『ラプチュア』で大きな注目を集めるが、このアルバムは彼女にとっての最初のグラミー賞受賞作品となった。翌1987年、ゴスペル・グループのワイナンズと共演した「エイン・ガット・ノー・ニード・トゥ・ウォリー」もグラミー賞に輝き、続く1988年には、彼女のシングル曲「ギビング・ユー・ザ・ベスト・ザット・アイ・ガット」が同賞2部門(ベスト・リズム・アンド・ブルース・ボーカル・パフォーマンス(女性)部門およびベスト・リズム・アンド・ブルース・ソング(女性)部門)を受賞する。ベーカーは、ホイットニー・ヒューストンWhitney Houston(1963―2012)、ナタリー・コールNatalie Cole(1950―2015)、ルーサー・バンドロスLuther Vandross(1951―2005)、ライオネル・リッチーLionel Richie(1949― )、フレディ・ジャクソンFreddie Jackson(1956― )といった当時の黒人シンガーと同じく、拡大する黒人中流層だけに留まらず、さらに大きなマーケットである白人層へ無理なく入り込むことに成功したシンガーだった。
1980年代後半に大スターとなったベーカーだが、1994年のアルバム『リズム・オブ・ラヴ』以後目だった活動はない。
[藤田 正]
ベーカー(Dame Janet Baker)
べーかー
Dame Janet Baker
(1933― )
イギリスのメゾ・ソプラノ歌手。ドンカスター生まれ。ロンドンで学び、1956年キャサリン・フェリアー・コンクールで2位になり、ザルツブルクに留学、ロッテ・レーマンに師事。61年以後はイギリス・オペラ・グループに加わり、グラインドボーン音楽祭でバロック・オペラなどを歌い一躍有名になった。66年以後、コベント・ガーデン王立歌劇場に登場するなど世界の歌劇場で活躍。均質な声質、明澄な声、知性的でバランスのとれた表現、技術により、バッハの宗教音楽、マーラーの歌曲も含めた幅広いレパートリーをもっている。70年(昭和45)初来日。76年にデイムの称号を受けている。82年にオペラの舞台からは引退、同年に自伝『フル・サークル』Full Circleを発表した。
[美山良夫]
『Janet BakerFull Circle ; an autobiographical journal(1982, Julia MacRae, London)』
ベーカー(Josephine Baker)
べーかー
Josephine Baker
(1906―1975)
アメリカ生まれのシャンソン歌手。セントルイスに生まれ、幼くして旅回りの一座に入り各地を回ったが、1925年パリで上演されたレビューでの演技が注目され、以後パリにとどまってシャンソンを歌うようになる。1930年に『二つの愛』J'ai deux amoursが大ヒットし、名声を確立した。幼いころからの幅広い経験を生かしたステージで好評を博し、『はだかの女王』(1934)などの映画にも出演した。第二次世界大戦後は人種差別の反対運動や、世界各国の孤児を迎え入れるなどの運動に献身、その関係や公演のため何度も来日している。
[田井竜一]
ベーカー(George Pierce Baker)
べーかー
George Pierce Baker
(1866―1935)
アメリカの演劇指導者。プロビデンスに生まれる。ハーバード大学卒業。母校の教授となり、多くの障害を乗り越えて、1905年にアメリカの大学で初めて「47ワークショップ」という劇作コースを開設、のちにアメリカ演劇の近代化に貢献する多くの人材を育成した。門下に、劇作家のオニール、ベーアマン、シドニー・ハワードら、舞台美術家のR・E・ジョーンズらがいる。25年エール大学へ移り、引き続き演劇講座を担当した。
[一ノ瀬和夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ベーカー
Baker, Alan
[生]1939.8.19. ロンドン
[没]2018.2.4. ケンブリッジ
イギリスの数学者。1961年ロンドン大学卒業後,1964年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで博士号を取得。ユニバーシティ・カレッジを経て,1966年にトリニティ・カレッジ教授。1970年にフランスのニースで開催された国際数学者会議で,整数論に関する業績によりフィールズ賞を受賞した。ベーカーの業績により,多くの不定方程式で,その解をすべて求めることが理論的に可能になった。ディオファントスの方程式については,ノルウェーのアクセル・トゥエ,ドイツのカール・ルートウィヒ・ジーゲル,イギリスのクラウス・フリードリヒ・ロスなどによる先駆的な研究があったが,ベーカーは 2変数のディオファントス方程式について,解の絶対値を押さえるような方程式の次数と係数のみによる有効な値が存在することを示した。この研究はベーカーによるゲルフォント=シュナイダーの定理(ダビット・ヒルベルトの第7問題)の一般化に関連している。ゲルフォント=シュナイダーの定理は,二つの代数的数α,βについて,ある条件のもとでαβが超越数であることを示すもので,ベーカーはこれを任意の個数の組の場合に一般化することに成功した。
ベーカー
Baker, James
[生]1930.4.28. テキサス,ヒューストン
アメリカ合衆国の政治家,弁護士。フルネーム James Addison Baker III。1989~92年,ブッシュ政権下の国務長官を務める。プリンストン大学,テキサス州立大学ロースクール卒業。弁護士を経てブッシュとの親交を通じて政・官界入り。1981~85年レーガン政権 1期目の大統領首席補佐官,その後財務長官に転じ(1985~88),1988年の大統領選挙では選挙対策本部委員長としてブッシュ当選に貢献,国務長官に起用された。1990年東西ドイツ統一の際には,ソビエト連邦の合意を得られるよう助力し,同 1990年のイラクによるクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争では,多国籍軍の形成に尽力した。1992年国務長官を辞任,1993年まで大統領首席補佐官を務めた。かつての国務長官ジョン・フォスター・ダレスとともに,最も世界を飛び回った国務長官といわれ,特に中東和平問題に精力を傾けた。退任後は国連事務総長特使として西サハラ紛争の調停にあたったほか,2000年代半ばにはいくつかの政府の調査委員会で活動した。1991年大統領自由勲章を受章。
ベーカー
Baker, Josephine
[生]1906.6.3. セントルイス
[没]1975.4.12. パリ
アメリカ生れのフランスの歌手,舞踊家。スペイン人と黒人の両親のもとに生れる。8歳頃から踊りを始め,フィラデルフィアのレビュー・グループに参加したのち,1923年ニューヨークのミュージック・ホールで黒人ミュージカルの主役ダンサーとして好評を得た。 25年パリに渡り,シャンゼリゼ劇場に出演,チャールストンを踊ってセンセーションを巻起した。 30年からカジノ・ド・パリの専属となり,「琥珀色の女王」と呼ばれ,映画にも出演。 37年フランス市民権を得て第2次世界大戦には赤十字に参加,その後フランス自由軍の中尉としてアフリカ,中近東の戦線で兵士の慰問をした。 50年から世界中の多くの孤児を養子にして,レ・ミランドと呼ぶ理想郷をフランス南西部に創設。 56年に舞台を引退したが,レ・ミランド維持のため,59年パリのオランピア劇場でカムバックし,成功した。
ベーカー
Baker, Ray Stannard
[生]1870.4.17. ミシガン,ランシング
[没]1946.7.12. マサチューセッツ,アマースト
アメリカのジャーナリスト。筆名 David Grayson。ミシガン大学を卒業後,1892年『シカゴ・レコード』紙の記者となり,その後『マクリュアーズ・マガジン』に関係,醜聞暴露の「マックレーカーズ」のグループに属して,1906年『アメリカン・マガジン』を創刊,編集長となった。 1907年より筆名でエッセーを出版。 1919年ウィルソン大統領からパリ講和会議の報道部長に任命され,国際連盟のために健筆をふるった。その後ウィルソンとその時代に関する権威として,『ウィルソン伝』 (8巻,1927~39) を著わし,ピュリッツァー賞を受賞。ほかに自伝的著作『アメリカ年代記』 American Chronicle (1945) など。
ベーカー
Baker, Sir Samuel White
[生]1821.6.8. ロンドン
[没]1893.12.30. デボン,サンドフォードオルレイ
イギリスの探検家。 1843~45年モーリシャス島に滞在,46~55年セイロン (現スリランカ) で農業に従事し,農園を開設。 56~60年近東旅行。 61年アフリカに行き,スーダンとアビシニア (現エチオピア) の国境の地域でナイル川の支流を探検。ホワイトナイル川をさかのぼり,64年3月アルバート湖を見出した。 65年帰国。翌年ナイト爵の称号を与えられる。 69年ナイル川赤道地域へ総督として軍事遠征を指揮,73年帰国。主著"Rifle and Hound in Ceylon" (1853) ,"Eight Years' Wanderings in Ceylon" (55) 。
ベーカー
Backer, Chet
[生]1929.12.23. オクラホマ,エール
[没]1988.5.13. アムステルダム
アメリカのジャズ・トランペッター,歌手。 1950~52年の兵役中,軍楽隊で演奏し,除隊後は駐屯地であったサンフランシスコで J.マリガンのカルテットに参加,ウェストコースト・ジャズのトランペッターとして,また独特の中性的な歌声によって一躍知られるようになった。 53年自己のカルテットを結成し,人気スターとなる。 55年以降,ヨーロッパでも活躍。たび重なる麻薬常用問題などもあって 1960年代はほとんど活動を行わなかったが,73年に復帰,名声を取戻した。
ベーカー
Baker, George Pierce
[生]1866.4.4. プロビデンス
[没]1935.1.6. ニューヘーブン
アメリカの演劇学者。ハーバード大学卒業後,同校にアメリカで最初の実践的な演劇講座を開設,劇作法を教えるとともに学生たちの作品を上演,E.オニール,S.C.ハワード,G.アボット,R.E.ジョーンズらのすぐれた劇作家,演出家,舞台美術家を世に送り出した。主著『劇作術』 Dramatic Technique (1919) など。
ベーカー
Baker, Harvey Humphrey
[生]1869.4.11. ブルックリン
[没]1915.4.10. ブルックリン
アメリカの法律家。 1894年ハーバード大学法学部修士。法律家となり,1906年ボストン少年裁判所設立とともに最初の判事として就任,以来同裁判所をアメリカの指導的少年裁判所に育てた。 17年4月設立された少年相談所ベーカー判事財団は彼の名前を取ったもの。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ベーカー
Oliver Edwin Baker
生没年:1883-1949
アメリカの農業地理学者。オハイオ州生れ。コロンビア大学などで政治学,哲学,社会学の修士号を取得後,イェール大学で林学を,さらにウィスコンシン大学の農学大学院で学び博士号を得た。1912年連邦農務省に入り,農業経済官となる。15-38年,年鑑編集に携わり,32年にはアメリカ地理学会の会長となった。42年,地理学教室創設のため,メリーランド大学に教授として招かれた。ベーカーの業績には,まず農業地図の編纂がある。《Atlas of World Agriculture》(1917)や,国土計画に役立った《Atlas of American Agriculture》(1918-36)の刊行は後世に残る。さらに学会誌《Economic Geography》の創刊とともに論文を投稿,1926-33年にわたり,北アメリカの農業地域について,全土11編に分けて報告した。今日,世界中の地理の教科書に掲載してある北アメリカの農業地域区分図は,彼が提示した区分に基づいている。ベーカーの業績の特徴は,資料の豊かさと作物や家畜の分布を巧みに地図上に表現したことにあり,いわば世界の農業地理学の創始者の一人であったといえる。
執筆者:坂本 英夫
ベーカー
Joséphine Baker
生没年:1906-75
フランスで活躍したアメリカの歌手,ダンサー。アメリカのセント・ルイスでスペイン人の父と黒人の母の間に生まれ,1925年,黒人レビュー団〈ブラック・バーズThe Black Birds〉の一員としてパリで公演。大胆なヌードとチャールストンの激しい踊りでショックを与える。31年《二つの愛J'ai deux amours》がヒットし,レビュー界のスターとなる。第2次大戦中は北アフリカで舞台に立つかたわら,フランス情報部など連合軍に協力,中尉として活躍した。戦後は中部フランスの古城を入手して世界各国の孤児を養子に迎え,彼らの救済に力を尽くした。混血孤児救済のため日本のエリザベス・サンダース・ホームも訪れている。その資金を得るため高齢を押して公演中,パリで急逝した。
執筆者:蒲田 耕二
ベーカー
George Pierce Baker
生没年:1866-1935
アメリカの演劇学者。1905年,母校ハーバード大学の劇文学担当初代教授となり,やがて講義番号にちなんで名づけられた〈47ワークショップ〉を創設して劇作術の探究に当たり,E.G.オニール,S.ハワード,G.アボットなどを育てた。25年イェール大学に移り,33年の引退まで同様の仕事を続けた。ベーカーは旧来のメロドラマとは異なる文学性の高い戯曲が一般化する基礎を築いた。
執筆者:喜志 哲雄
ベーカー
Harvey Humphrey Baker
生没年:1869-1915
アメリカの判事。アメリカの少年裁判所運動に寄与し,創設期のボストン少年裁判所の判事として活躍した(在職1906-15)。少年事件の処理に科学的方法を採り入れ,高度のケース・ワークを発展させたことで知られる。没後,1917年にボストンに設立されたベーカー判事記念財団は,ボストン少年裁判所と連携を保ち,少年裁判所の科学化の促進に貢献した。
執筆者:山口 厚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ベーカー
米国のジャズ・トランペット奏者,歌手。クール・ジャズを代表するジャズ・ミュージシャンの一人で,1950年代に西海岸を中心に活躍した。1952年,ジェリー・マリガンGerry Mulligan〔1927-1996〕のカルテットに参加,一躍注目を浴びる。その後独立し,自らカルテットを率いた。軽やかで抒情的な演奏と,《チェット・ベーカー・シングズChet Baker Sings》(1954年―1956年)に見られるような,柔らかく甘美な歌声で人気を博した。晩年は麻薬の常用からしばしば演奏活動を中断しながらも,《枯葉She Was Too Good To Me》(1974年)などの多くの作品を残している。
ベーカー
米国生れのフランスのポピュラー歌手,ダンサー。セント・ルイスでスペイン人の父と黒人の母の間に生まれた。1923年からニューヨークで黒人レビューに出演し,1925年パリに移住,一躍パリ・レビュー界の大スターとなった。〈コハクの女王〉と呼ばれ,レコード,映画でも活躍し,世界的な名声を得た。孤児救済など社会事業にも積極的に参加し,敬愛された。
→関連項目フォリー・ベルジェール
ベーカー[島]【ベーカー】
中部太平洋,赤道付近にある米領の小環礁。1832年発見,19世紀後半約40年グアノ採掘が行われたが,1936年以降海軍基地として米国が領有。約2km2。無住。
→関連項目ハウランド[島]
ベーカー
米国の演劇学者。ハーバード大学卒。母校最初の劇文学教授として,E.G.オニールはじめ幾多の劇作家を育成,演劇革新運動に理論的根拠を与えた。主著《戯曲の技法》(1919年)など。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ベーカー Baker, Frayne
1891-1968 アメリカの軍人。
1891年8月26日生まれ。陸軍准将。戦後の昭和21-22年GHQ渉外局長をつとめる。第2次読売新聞争議への介入など新聞・出版関係労働組合活動の抑圧にかかわった。1968年8月3日死去。76歳。ノースダコタ州出身。アメリカの陸軍大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
ベーカー
生年月日:1869年4月11日
アメリカの法律家
1915年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のベーカーの言及
【レビュー】より
…フランスでは19世紀末にキャバレー,サーカス,カフェでの流行から,さらに大きな専用のミュージック・ホールで上演されるようになって,舞台装置や演出もスペクタクル性を高めた。20世紀に入ると,踊り子による群舞のエロティシズムや[M.シュバリエ],[J.ベーカー]らの歌手も人気を博して全盛期を迎えた。イギリスのレビューは1893年の《時計の下で》に始まり,1920年代から30年代にかけて,興行師シャルロAndré Charlot(1882‐1956)が製作したスペクタクル性の強いものと,興行師コクランCharles Blake Cochran(1873‐1951)が製作した風刺的で機知に富むものとを代表とする。…
【土地利用】より
…近年アメリカ合衆国では土地利用・土地被覆図(25万分の1,10万分の1)作成に[リモートセンシング]・データを利用している。土地利用調査のはじめとされるのは,アメリカのO.E.ベーカーが行った農業土地利用についての調査で,彼は《Atlas of American Agriculture》(1918‐36)を作成した。1933‐39年には,それより内容の広い画期的な土地利用調査がイギリスでL.D.スタンプにより行われ,約6万3000分の1の土地利用図が作成された。…
※「ベーカー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」