モーガン(読み)もーがん(英語表記)Charles Langbridge Morgan

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モーガン」の意味・わかりやすい解説

モーガン(Lee Morgan)
もーがん
Lee Morgan
(1938―1972)

アメリカのジャズ・トランペット奏者。フィラデルフィア生まれ。父親はトランペット、トロンボーンを吹き、姉、兄ともにジャズ好きという家庭環境に育ち、幼児期からジャズに親しむ。13歳でミュージシャンになる決意をし、14歳でトランペットを買い与えられる。ほぼ独学で技術を習得、トランペット奏者クリフォード・ブラウンに憧れ猛練習を重ね、高校に入学するころにはダンス・パーティーなどで演奏を始める。15歳で自分のバンドを結成、地元のクラブ「ミュージック・シティ」に出入りし、ニューヨークからやってくる一流ジャズマンたちの演奏にじかに接する。

 1956年、ドラム奏者アート・ブレーキーと彼の率いるバンド、ジャズ・メッセンジャーズがフィラデルフィアを訪れた際、2週間サイドマンを務めるというチャンスを得る。同年、18歳でトランペット奏者ディジー・ガレスピーの楽団に加入、驚異の新人としてニューヨークのファンに迎えられ、ただちに初レコーディングにして初リーダー作『リー・モーガン・インディード!』(1956)録音という快挙をなす。そればかりでなく、なんと翌日にも他のレコード会社にリーダー作『イントロデューシング・リー・モーガン』を吹き込むという離れ業をやってのける。

 1958年ジャズ・メッセンジャーズに入団、アルバム『モーニン』『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』のレコーディングに参加し、ジャズ・メッセンジャーズおよびモーガンの人気は決定的なものとなる。

 1961年(昭和36)、モーガンとテナー・サックス奏者ウェイン・ショーターが加わったジャズ・メッセンジャーズが来日、一大ファンキー・ジャズ・ブームを巻き起こす。日本に大衆レベルでジャズが浸透したのは彼らの公演がきっかけとなっており、モーガンの日本での人気も沸騰する。

 1962年体調を崩し故郷に戻る。1963年ジャズ・シーンに復帰し、ジャズ・ロックの代表作といわれたアルバム『ザ・サイドワインダー』を録音、翌1964年発売と同時に『ビルボード』Billboard誌アルバム・チャート25位に入るという、ジャズ・アルバムとしては異例の大ヒットとなり、タイトル・ナンバーがテレビのコマーシャルに使用される。

 1964年、ジャズ・メッセンジャーズに復帰、翌1965年メンバーの一員として再度来日。同年ジャズ・メッセンジャーズを離れフリーランスとして活動。1970年、テレビなど放送メディアに黒人音楽家を出演させるための組織「ジャズ・アンド・ピープルズ・ムーブメント」(J&PM)のメンバーとして、テレビ・ショー録画中のスタジオに乗り込み、抗議運動を展開する。1972年ニューヨークのクラブ「スラッグス」に出演、休憩時間に女性関係のもつれから愛人に射殺される。ほかの代表作に『リー・モーガンVol. 3』『キャンディ』(ともに1957)、『ソニック・ブーム』(1967)がある。

 彼のトランペット奏法は、ブラウン直系の、楽器の特性を生かしたストレートで輝かしい音色を特徴とし、そこに少し大衆的なフレーズを付け加えたところが、多くのファンに受け入れられた理由である。

[後藤雅洋]


モーガン(Thomas Hunt Morgan)
もーがん
Thomas Hunt Morgan
(1866―1945)

アメリカの遺伝学者、発生学者。ケンタッキーレキシントン生まれ。1890年ジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を得た。1904年にはコロンビア大学の実験動物学教授となり、実験発生学の分野で多くの業績をあげたが、1910年ごろよりその関心はしだいに遺伝学へと向けられていった。その発端は、飼育していたキイロショウジョウバエに白眼の突然変異を発見したことにあるといわれている。ショウジョウバエは突然変異がおこりやすく、世代を短期間に重ね、飼育も容易で、遺伝研究には最適の材料である。

 ショウジョウバエで数多くの交雑実験を行い、対立形質がいくつかの組合せをつくって遺伝する「連鎖の法則」をみいだし、その組合せが染色体の対(つい)と同数であることから、メンデルが推定した遺伝因子は染色体上に線状配列するという遺伝子説を提唱した。さらに、染色体の交差によっておこる遺伝子の乗換え率の測定から、それぞれの遺伝子の染色体上の相対的位置を表す染色体地図を作製し、遺伝子説を確立した。このような研究成果に基づいて、近代遺伝学の理論を整理し、それに明解な表現を与えたのが、1926年に出版された『遺伝子説』である。遺伝において染色体の果たす役割を発見したことに対して1933年ノーベル医学生理学賞が与えられた。なお1928年からカリフォルニア工科大学の生物学部長となっている。

[真船和夫]


モーガン(Lloyd Morgan)
もーがん
Lloyd Morgan
(1852―1936)

イギリスの動物学者。人間と動物との行動の実験的比較研究を行い、今日の比較心理学の発達に寄与した。当時ダーウィンの進化論の影響下に動物の種の系統発生的な連続が強調されたが、ロマネスGeorge John Romanes(1848―1894)らが動物の行動と人間の行動との類似に着目し、これを擬人的に解釈しようとしたのに対し、もしも動物の行動が下等な心的能力によって解釈されるならば、より高等な心的能力の所産として解してはならないという主張をした。この見解はモーガンの公準Morgan's canonといわれ、その後の比較心理学(動物心理学)、とくにアメリカの行動主義に影響を与えている。著書に『An Introduction to comparative psychology』(1894)、『The animal mind』(1930)などがある。

[小川 隆]


モーガン(Charles Langbridge Morgan)
もーがん
Charles Langbridge Morgan
(1894―1958)

イギリスの小説家、劇作家、批評家。第一次世界大戦時に海軍に入り、1914~17年捕虜としてオランダで抑留生活。戦後19年オックスフォード大学に入学以来、創作と批評活動に入る。理知的、思索的な傾向は、劇作よりは小説、批評に適し、イギリスの伝統的な風俗小説とは異質な、透明度の高い内省的、哲学的小説の傑作『鏡の中の肖像』(1929)、『泉』(1932)、『スパーケンブロク』(1936)などを生んだ。その作風はむしろヨーロッパ、とくにフランスで高い評価を受けている。ほかに評論集『鏡に映る影』(1944~46)がある。

[佐野 晃]

『小佐井伸二訳『泉』(1964・白水社)』『矢本貞幹・笹山隆訳『鏡に映る影』(1958・南雲堂)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モーガン」の意味・わかりやすい解説

モーガン
Morgan, Thomas Hunt

[生]1866.9.25. ケンタッキー,レキシントン
[没]1945.12.4. ロサンゼルス,パサディナ
アメリカの遺伝学者,発生学者。ケンタッキー州立大学卒業 (1886) 。 1890年ジョンズ・ホプキンズ大学より学位取得後,ブリンマー・カレッジ教授となり,ここで同僚の J.レープから影響を受ける。発生に対して培養液の塩濃度が及ぼす作用などについて研究。コロンビア大学動物学教授 (1904) 。 H.ド・フリース突然変異説に共感し,動物で突然変異を発見しようと意図して,1908年にショウジョウバエの飼育を開始した。その頃まで彼は G.メンデル遺伝子説に対して批判的であり,また染色体を形質決定要因とみなす T.ボベリらの学説に対しても反論を加えていた。翌年,眼色に関する突然変異体を得,これを用いて交雑実験を行なっているうちに,メンデルの理論を全面的に受入れるようになったばかりか,染色体による形質決定説にも賛同し,両者を結びつけて遺伝の染色体説を樹立した。染色体はメンデルのいう遺伝要素が直線的に配列したものにほかならないとするこの説は,それまで互いに独立に発達をとげてきた細胞学遺伝学とを連結し,細胞遺伝学という新たな研究領域を開いた。 28年カリフォルニア工科大学に生物学教室を創設。それを機に遺伝学の研究から手をひいて,以来発生学に専念。生物学の研究方法に関して彼は,従来の記述的方法を排し,実験的方法をとるべきであると主張し,また,生物学の各分科を統合しようという意図をもち続けた。遺伝の染色体説を確立したことにより,33年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

モーガン
Morgan, Lewis Henry

[生]1818.11.21. ニューヨーク,オーロラ
[没]1881.12.17. ニューヨーク,ロチェスター
アメリカの法律家,民族学者。ユニオン・カレッジを卒業し,1844年頃からニューヨーク州ロチェスターで弁護士として活躍。抑圧されていたアメリカインディアンの土地問題解決に尽力し,46年セネカ族に「養子」として受入れられた。以後,大平原のインディアン諸民族の実地調査やイロコイ族の氏族組織を研究し,親族組織と家族,婚姻の形態との関係について進化論上の見解を発表,イギリスの E.タイラーと並んで進化主義人類学の権威として知られた。その主張は,「人類は根元において一つであり,経験において一つであり,進歩において一つである」という思考を基本とするものであった。アメリカの国立アカデミー会員,80年にはアメリカ科学振興協会会長となり,政治家として 61~68年には州下院議員,68~69年には州上院議員をつとめた。主著『古代社会』 Ancient Society (1877) 。

モーガン
Morgan, John

[生]1735.6.10. フィラデルフィア
[没]1789.10.15. フィラデルフィア
アメリカの医師。 1757年フィラデルフィア・カレッジ (現ペンシルバニア大学) を卒業,フレンチ・アンド・インディアン戦争ではイギリス植民地軍の軍医として従軍,復員後再び学問を志し,エディンバラ,パリ,イタリアに学び,この間 63年にエディンバラ大学で学位を取得,65年に帰国してフィラデルフィア・カレッジに最初の医学校を建設し,そこで北アメリカ最初の医学教授に任命された。その頃,外科と内科の分離および医薬の分業,医学生の自由な教育を試みたが,時期熟せず成果は得られなかった。アメリカに E.ジェンナーの種痘法を導入した医師の一人でもある。主著に『予防接種法のすすめ』A Recommendation of Inoculation (1776) がある。

モーガン
Morgan, Daniel

[生]1736. ニュージャージー,ハンタードン
[没]1802.7.6. バージニア,ウィンチェスター
アメリカ独立革命期の軍人。 1775年バージニア・ライフル連隊の大尉となり,B.アーノルドに従ってカナダ遠征に参加。 76年末ケベック襲撃に際しイギリス軍の捕虜となったが脱走。 77年 H.ゲーツ将軍のもとでサラトガの戦いに参加。 79年いったん除隊したが,80年再びゲーツ将軍の部隊に加わり,准将に昇進。 81年1月 17日カウペンスの戦いで B.タールトン将軍の率いるイギリス軍を破り,C.コーンウォリスの追撃を振切ってサウスカロライナに逃れた。戦後の 94年 11月西ペンシルバニアの「ウイスキー反乱」鎮圧に参加。 97~99年連邦下院議員。

モーガン
Morgan, Charles

[生]1894.1.22. ケント,ブロムリー
[没]1958.2.6. ロンドン
イギリスの小説家,評論家,劇作家。国際ペンクラブの会長 (1953~58) 。オックスフォード大学に学ぶ。海軍に入り第1次世界大戦に従軍,その体験に基づく小説『泉』 The Fountain (32) や『スパーケンブルック』 Sparkenbrooke (36) ,『航海』 The Voyage (40) などを発表。評論集に『精神の自由』 Liberties of the Mind (51) 。『輝く流れ』 The Flashing Stream (1938) などの戯曲もあり,『タイムズ』紙の演劇欄を担当した (26~39) 。

モーガン
Morgan, Conwy Lloyd

[生]1852.2.6. ロンドン
[没]1936.3.6. サセックス,ヘースティングズ
イギリスの動物学者,比較心理学者。ブリストル大学教授。動物行動を研究するにあたり,擬人観に基づく逸話的な方法を排すべきであると主張し,モーガンの公準を提唱。主著『比較心理学序説』 Introduction to Comparative Psychology (1894) ,『動物行動』 Animal Behavior (1900) ,『創発的進化』 Emergent Evolution (23) ,『動物の心』 The Animal Mind (30) 。

モーガン
Morgan, William G.

[生]1870.1.23. ニューヨーク,ロックポート
[没]1942.12.27. ニューヨーク,ロックポート
バレーボールの考案者。マサチューセッツ州ホールヨーク市でYMCAの体育指導をしていた 1895年,老若男女が手軽に楽しめる室内スポーツとして,テニスハンドボールからヒントを得てバレーボールを創案した。

モーガン
Morgan, Maurice

[生]1726. ロンドン
[没]1802.3.28. ロンドン
イギリスの外交官,著述家。アメリカ植民地問題の権威で,1782年の独立戦争講和会議には大使秘書として活躍。『サー・ジョン・フォールスタッフの性格についての試論』 Essay on the Dramatic Character of Sir John Falstaff (1777) はフォールスタッフ弁護論としてシェークスピア批評史において重要な地位を占めるもの。

モーガン
Morgan, John Hunt

[生]1825.6.1. アラバマ,ハンツビル
[没]1864.9.4. テネシー,グリーンビル
アメリカの軍人。南北戦争の勃発とともに南軍の騎兵隊長となり,北軍の背後に侵入し,インディアナ,オハイオでゲリラ戦を展開。 1863年7月北軍の捕虜となったが脱走。 64年再度北部へ侵攻し,のちテネシーで北軍部隊と交戦して戦死。

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