アメリカのジャズ・トランペット奏者。フィラデルフィア生まれ。父親はトランペット、トロンボーンを吹き、姉、兄ともにジャズ好きという家庭環境に育ち、幼児期からジャズに親しむ。13歳でミュージシャンになる決意をし、14歳でトランペットを買い与えられる。ほぼ独学で技術を習得、トランペット奏者クリフォード・ブラウンに憧れ猛練習を重ね、高校に入学するころにはダンス・パーティーなどで演奏を始める。15歳で自分のバンドを結成、地元のクラブ「ミュージック・シティ」に出入りし、ニューヨークからやってくる一流ジャズマンたちの演奏にじかに接する。
1956年、ドラム奏者アート・ブレーキーと彼の率いるバンド、ジャズ・メッセンジャーズがフィラデルフィアを訪れた際、2週間サイドマンを務めるというチャンスを得る。同年、18歳でトランペット奏者ディジー・ガレスピーの楽団に加入、驚異の新人としてニューヨークのファンに迎えられ、ただちに初レコーディングにして初リーダー作『リー・モーガン・インディード!』(1956)録音という快挙をなす。そればかりでなく、なんと翌日にも他のレコード会社にリーダー作『イントロデューシング・リー・モーガン』を吹き込むという離れ業をやってのける。
1958年ジャズ・メッセンジャーズに入団、アルバム『モーニン』『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』のレコーディングに参加し、ジャズ・メッセンジャーズおよびモーガンの人気は決定的なものとなる。
1961年(昭和36)、モーガンとテナー・サックス奏者ウェイン・ショーターが加わったジャズ・メッセンジャーズが来日、一大ファンキー・ジャズ・ブームを巻き起こす。日本に大衆レベルでジャズが浸透したのは彼らの公演がきっかけとなっており、モーガンの日本での人気も沸騰する。
1962年体調を崩し故郷に戻る。1963年ジャズ・シーンに復帰し、ジャズ・ロックの代表作といわれたアルバム『ザ・サイドワインダー』を録音、翌1964年発売と同時に『ビルボード』Billboard誌アルバム・チャート25位に入るという、ジャズ・アルバムとしては異例の大ヒットとなり、タイトル・ナンバーがテレビのコマーシャルに使用される。
1964年、ジャズ・メッセンジャーズに復帰、翌1965年メンバーの一員として再度来日。同年ジャズ・メッセンジャーズを離れフリーランスとして活動。1970年、テレビなど放送メディアに黒人音楽家を出演させるための組織「ジャズ・アンド・ピープルズ・ムーブメント」(J&PM)のメンバーとして、テレビ・ショー録画中のスタジオに乗り込み、抗議運動を展開する。1972年ニューヨークのクラブ「スラッグス」に出演、休憩時間に女性関係のもつれから愛人に射殺される。ほかの代表作に『リー・モーガンVol. 3』『キャンディ』(ともに1957)、『ソニック・ブーム』(1967)がある。
彼のトランペット奏法は、ブラウン直系の、楽器の特性を生かしたストレートで輝かしい音色を特徴とし、そこに少し大衆的なフレーズを付け加えたところが、多くのファンに受け入れられた理由である。
[後藤雅洋]
アメリカの遺伝学者、発生学者。ケンタッキー州レキシントン生まれ。1890年ジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を得た。1904年にはコロンビア大学の実験動物学教授となり、実験発生学の分野で多くの業績をあげたが、1910年ごろよりその関心はしだいに遺伝学へと向けられていった。その発端は、飼育していたキイロショウジョウバエに白眼の突然変異を発見したことにあるといわれている。ショウジョウバエは突然変異がおこりやすく、世代を短期間に重ね、飼育も容易で、遺伝研究には最適の材料である。
ショウジョウバエで数多くの交雑実験を行い、対立形質がいくつかの組合せをつくって遺伝する「連鎖の法則」をみいだし、その組合せが染色体の対(つい)と同数であることから、メンデルが推定した遺伝因子は染色体上に線状配列するという遺伝子説を提唱した。さらに、染色体の交差によっておこる遺伝子の乗換え率の測定から、それぞれの遺伝子の染色体上の相対的位置を表す染色体地図を作製し、遺伝子説を確立した。このような研究成果に基づいて、近代遺伝学の理論を整理し、それに明解な表現を与えたのが、1926年に出版された『遺伝子説』である。遺伝において染色体の果たす役割を発見したことに対して1933年ノーベル医学生理学賞が与えられた。なお1928年からカリフォルニア工科大学の生物学部長となっている。
[真船和夫]
イギリスの動物学者。人間と動物との行動の実験的比較研究を行い、今日の比較心理学の発達に寄与した。当時ダーウィンの進化論の影響下に動物の種の系統発生的な連続が強調されたが、ロマネスGeorge John Romanes(1848―1894)らが動物の行動と人間の行動との類似に着目し、これを擬人的に解釈しようとしたのに対し、もしも動物の行動が下等な心的能力によって解釈されるならば、より高等な心的能力の所産として解してはならないという主張をした。この見解はモーガンの公準Morgan's canonといわれ、その後の比較心理学(動物心理学)、とくにアメリカの行動主義に影響を与えている。著書に『An Introduction to comparative psychology』(1894)、『The animal mind』(1930)などがある。
[小川 隆]
イギリスの小説家、劇作家、批評家。第一次世界大戦時に海軍に入り、1914~17年捕虜としてオランダで抑留生活。戦後19年オックスフォード大学に入学以来、創作と批評活動に入る。理知的、思索的な傾向は、劇作よりは小説、批評に適し、イギリスの伝統的な風俗小説とは異質な、透明度の高い内省的、哲学的小説の傑作『鏡の中の肖像』(1929)、『泉』(1932)、『スパーケンブロク』(1936)などを生んだ。その作風はむしろヨーロッパ、とくにフランスで高い評価を受けている。ほかに評論集『鏡に映る影』(1944~46)がある。
[佐野 晃]
『小佐井伸二訳『泉』(1964・白水社)』▽『矢本貞幹・笹山隆訳『鏡に映る影』(1958・南雲堂)』
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アメリカの金融資本家。モーガン(モルガン)財閥の祖。コネティカット州ハートフォードに生まれ,ドイツのゲッティンゲン大学で学んだ。1857年にニューヨークのダンカン・シャーマン商会に入社して,金融界への第一歩を踏み出した。その後いくつかの会社に勤めたのち,71年にフィラデルフィアの銀行家とドレクセル・モーガン商会を設立,95年にはJ.P.モーガン商会J.P.Morgan&Co.に改組した。産業界への貢献としては,1885年のペンシルベニア鉄道会社とニューヨーク・セントラル鉄道会社の激烈な闘争の調停をはじめ,チェサピーク・オハイオ,ノーザン・パシフィック,ボルティモア・オハイオなどの数多くの鉄道会社を再編成し,1900年までに金融的支配のもとに国内最大の鉄道事業の指導者となった。またゼネラル・エレクトリック社,USスチール社,インターナショナル・ハーベスター社などに融資し,当時の群小企業による過剰競争を排除し,集中により産業界を安定させモルガン財閥を形成し,金融資本による産業資本の支配形態を明確にした。また1893年の経済不況に際しては,95年に6200万ドルの政府債を金で購入,国庫の金準備を1億ドルに回復させ,金融不安を解消した。1907年の恐慌でも,ニューヨークの金融界を指導し,主要な銀行や企業の倒産を防いだ。このようにモーガンは,アメリカ経済が驚異的な成長率で発展した時代に最も適応し,その経済成長を推進した数少ない重要人物の一人である。それも組織の力でなく個人的能力によるものであった。また,美術品の収集家としても有名で,本物の審美眼をもっており,ニューヨークのメトロポリタン美術館を世界的水準に高めたのも彼であった。その遺産は当時で約7000万ドルに達した。
執筆者:二宮 豊志
アメリカの人類学者。ニューヨーク州生れ。彼がニューヨーク州のイロコイ族との生活の中から著した《イロコイ連合》(1851)は非ヨーロッパ人に関する初めての完全な民族誌として評価されている。また《人類の血族と姻族の諸体系Systems of Consanguinity and Affinity of the Human Family》(1871)は人類学調査におけるテーマとしての親族組織の重要性を明らかにし,とくに親族用語を記述的用語と分類的用語に分けて考察することの必要性を指摘した。人類は,その起源と経験と進歩において一つだという前提に立つモーガンは,蒙昧から野蛮の段階をへて文明段階に至るという文化進化の一大図式を《古代社会》(1877)の中で提出した。この図式はエンゲルスの《家族,私有財産および国家の起源》(1884)に借用され,マルクス主義史観に影響を及ぼした。19世紀の一線的進化主義を代表する彼の研究はその後きびしい批判をうけたが,アメリカにおける社会人類学,とくに親族研究の先駆者としての評価はなお高い。
執筆者:松園 万亀雄
イギリスの小説家。13歳で海軍兵学校に入り,第1次大戦中はベルギーで捕虜となる。戦後オックスフォード大学を卒業,タイムズに入社して劇評を担当した。妻ヒルダ・ボーンHilda Vaughanも小説家として著名である。若い海軍士官の行動の率直な描写が目だつ《士官次室》(1919)にもこの戦争の捕虜経験が描かれるが,小説《泉》(1932)は大陸で戦うイギリス兵士の内面的苦悩を描いた傑作である。また次作《スパーケンブルック卿》(1936)はイタリアとイギリスの田園を背景にした恋物語であるが,これらは繊細で凝った文体で書かれ,とくにフランスで評判が高かった。その後第2次大戦にも参加したが,人生や文学について思索をめぐらした《鏡に映る影》2巻(1944-46)は戦争中《タイムズ文芸付録》に寄稿したエッセー集である。《判事の話》(1947),《リバー・ライン》(1949刊,1952劇化上演),《朝風》(1951)などでは,その文体はさらに抑制されたものになっている。1953年国際ペンクラブの会長に選ばれた。
執筆者:鈴木 建三
アメリカの遺伝学者。レキシントンの生れ。1886年ケンタッキー州立大学卒,ジョンズ・ホプキンズ大学へ進み,90年学位取得。1904-28年コロンビア大学教授,28-45年カリフォルニア工科大学教授。はじめ発生学を研究するが,1900年のメンデルの論文の再発見とともに遺伝学に関心を示すようになり,ネズミを用いた実験を行い,メンデル説を検討する。しかし,明確なものが得られず批判的になる。07年ごろからキャッスルW.E.Castle(1867-1962)のすすめでショウジョウバエを材料にして遺伝研究を開始する。10年その突然変異体を発見,以後精力的にこれらを用いて伴性遺伝,連鎖など今日の遺伝学の基本となる現象を解明,ショウジョウバエ学派を形成する。26年の《遺伝子説》はその集大成。33年ノーベル生理学・医学賞受賞。翌年《発生学と遺伝学》を著すが,彼の宿願はこの両者の結合であったようであり,今日話題の細胞分化の解明をめざしていたといえよう。
執筆者:鈴木 善次
イギリスの海賊。ウェールズの生れ。はじめ誘拐されて西インド諸島のバルバドス島に売り飛ばされたともいわれる。カリブ海で海賊稼業に従事するうち,仲間は彼を〈提督〉と呼んで頭首に選んだ。スペイン軍のジャマイカ侵攻が伝えられるなかで,同地のイギリス総督は彼にアメリカ本土のスペイン領襲撃を委嘱,よって一統は1668年ポルト・ベロ(現,パナマ領)を攻撃,完全に町を略奪した。奪ったレアル貨は25万枚に上ったといわれる。69年にはキューバ,マラカイボ(現,ベネズエラ領),ジブラルタルを襲撃,70年にはサンタ・カタリーナ島(現,アメリカ合衆国カリフォルニア州),71年にはパナマ市を占拠した。70年イギリス・スペイン間にマドリード条約が締結されると,72年彼は本国に召還され,その行動を非難された。しかし,少時の謹慎ののち,75年には騎士位を授けられ,ジャマイカ副総督,軍の最高司令となる。同島ポート・ローヤルに没。
執筆者:越智 武臣
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1635頃~88
17世紀イギリスの私拿捕(しだほ)船船長,海賊。幼時ブリストルで誘拐され,バルバドスに売られて海賊船に乗り組んだが,西インド諸島をめぐる争奪戦でジャマイカ総督からバッカニア(私拿捕船員)として委託を受け,キューバ,ポルト・ベリョ,パナマを攻撃した。晩年はナイトに叙せられ,ジャマイカ副総督となった。
1818~81
アメリカの文化人類学者。原始社会における婚姻ならびに家族形態の解明に努め,人類社会を野蛮,未開,文明の3期に分けた。先住アメリカ人について書いた『イロクォイ同盟』(1851年),および晩年の『古代社会』(1877年)は特に有名。文化人類学の発展に伴って,モーガンの学説は否定されたが,その学問的意義と貢献には多大なるものがある。
1837~1913
アメリカの銀行家,モーガン財閥の創始者。モーガン商会を設立して,1870年代以降金融操作により鉄道,鉄鋼その他の産業部門の再編成を進め,財界における支配力を強めた。収集美術品はメトロポリタン美術館の設立に貢献。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
モルガンをも見よ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…アメリカの金融財閥として,しばしばヨーロッパのロスチャイルド家と並び称される。モーガン財閥ともいう。財閥の宗主J.P.モーガンおよび彼の組織したモーガン(モルガン)商会J.P.Morgan & Co.は,アメリカ資本主義の発展の歴史と密接に関係し,強大な影響力を与えてきた。…
… 19世紀末から20世紀にかけてのこの時期は,同時に生物学的進化論が隆盛をきわめた時代でもあり,家族論はこの影響を濃厚に受けて,家族の諸類型を進化論的系列に並べて理解しようとする試みが多く現れた。その典型がL.H.モーガンで,彼は《古代社会》(1877)において,婚姻形態を原始乱婚制からもっとも進化した一夫一婦制に至る数段階に配列し,家族形態もそれに対応させた。この仮説の基礎になっている親族名称の分析は,人類学史上画期的なものとされ,さらにエンゲルスの《家族,私有財産および国家の起源》(1884)にそのまま踏襲されて大きな影響力を振るった。…
…しかし種族は,ヨーロッパ人の記憶にまだ新しくかつ旧約聖書に知られた家族形態すなわち家父長制家族の拡大したものと考えられ,したがってこの原始的共産制は,婦人・子どもの家父への隷属,および奴隷制をともなうものと考えられた(エンゲルス《反デューリング論》1878)。L.H.モーガンの《古代社会》(1877)は,血縁にもとづく自然的共同体(氏族,部族)こそ本源的な人間の社会的結合であり,夫婦という非血縁関係を中核とする家族は,第2次的な関係で,しかも本来の血縁共同体に対立し,その解体にともなって成長してくる新しい関係であること,血縁共同体は本来は母系制であることを示した。これによれば原始共産制は婦人の隷属も奴隷制も知らない真の平等社会ということになる(エンゲルス《家族,私有財産および国家の起源》1884)。…
…アメリカ文化人類学の先駆者ともいうべきL.H.モーガンの主著(1877)。社会進化論の代表的著作で,あらゆる人類社会は進化の速度はちがっても画一的な段階を通過するという一線進化論の立場から書かれた。…
…しかるにこの方法を進めていくと,これまで氏族の名でよばれてきた組織は,けっして首尾一貫した単一な原理によって形成された固定的なものではなく,むしろその構造原理において,いくつかのカテゴリーに類別しうる多様な組織の総称であり,かつこれらのカテゴリー相互の間には,容易に一方から他方に変化しうる流動性の存することが見いだされるのである。
【研究史と問題の所在】
人類史における氏族制度の意義をはじめて体系的に明らかにしたのは,L.H.モーガンの《古代社会》(1877)である。モーガンは多年にわたり,みずから北アメリカ東部のイロコイ諸族の中に入って調査にあたったが,ここに発見した母系の氏族制度がイロコイ諸族の社会に占める大きな役割に対してひじょうな興味をおぼえ,この種の形態を,文明のはるか以前,人類進化の初期に生まれた原始的な氏族制度の典型と考えた。…
…これに対して自己の親族関係者への呼びかけadressに用いられる語彙は親族呼称という。親族名称を初めて体系的に研究し,婚姻,技術,経済,政治制度などと関連づけて,壮大な人類文化史の再構成を試みたのはL.H.モーガンである。《人類家族の血縁と婚姻の諸体系》(1871)のなかでモーガンは親族名称を類別的親族名称classificatory kinship term(いくつかの親族的範疇が一つの名称でくくられた形式)と記述的親族名称descriptive kinship term(個々の親族的範疇がそれぞれ固有の名称で指示される形式)に区別し,前者にマレー型親族名称とトラニア・ガノワニア型親族名称を,後者にアーリア・セム型親族名称を分類した。…
…日本古代の婚姻は妻訪婚と考えられているが,この妻訪いが終生のものか一時的なものか議論がわかれる。このような議論は,よばいを乱婚や集団婚の論拠とするのと同様に,古典的なアメリカのL.H.モーガン(1818‐81)の人類社会の単系的進化学説(現在では支持されていない)の影響のもとに,原始日本に母系制の存在を考えようとする試みと思われる。婚姻【植松 明石】。…
…事実,世界に分布する諸社会の未開性がもっとも問題にされ,関心をもたれたのは,19世紀後半の進化,発展主義の思潮のなかで形成された人類学の初期段階においてであった。人類学の祖と目されるL.H.モーガンやE.B.タイラーは研究対象の未開社会を体系的に扱った人々の代表であるが,両者の学説の中では,人類社会はより高度の完成へ向かう一系的な進化の過程をたどると仮定され,未開社会は,西欧文明社会を頂点とした発展過程の諸段階を,なんらかの理由で残存,保持してきたと想定された。したがって,未開社会の様態の研究は人類史の諸段階を復元するためのものであり,発展を野蛮,未開,文明の3段階で捉えようとしたモーガンは,現存する社会の未開状態を低度の発展段階にとどまった人類の遺物とみなしたのであった。…
…ここに細胞遺伝学とよぶ細胞学と結合した遺伝学の新分野が生まれた。1910年代に入って,T.H.モーガンらはキイロショウジョウバエを用いて,遺伝子と染色体部分の直接的な結びつきを証明し,遺伝に染色体という物質的な基礎を与えた。現在,この分野では種々の遺伝学的現象を細胞学的現象に関連・対応づけるため,核や細胞小器官(オルガネラ)自体およびそれらに含まれる染色体やDNA分子の構造・複製・伝達・化学的組成などを光学・紫外線・蛍光あるいは電子顕微鏡を用いて研究している。…
…このような遺伝因子はメンデル因子,または単に因子とよばれていたが,W.L.ヨハンセン(1909)の提案した遺伝子という語がしだいにこれにとって代わるようになった。 サットンW.S.Sutton(1902)らはいち早く成熟分裂における染色体の行動がメンデル因子の行動と一致することを明らかにしたが,さらに,1910年に始まるT.H.モーガンらのキイロショウジョウバエの研究により,遺伝子は染色体に線状に配列して連鎖群を形成しており,一つの遺伝子は特定の染色体の特定の部位を占めていることがわかった。このような研究により,それまで仮想的な存在であった遺伝子が物質的基礎をもつことになり,その構造と機能を物質的に研究する道が開けた。…
…ある生物のもつ独特の構造や機能を作るために必要な情報は莫大な量に違いないが,この情報も結局はある程度の独立性をもった素情報ともいうべき〈遺伝子〉の集合として理解できることを示唆したのもG.J.メンデルの功績である。20世紀に入ってアメリカのT.H.モーガンらは,遺伝子のもつ情報の変化(突然変異)がおこること,およびその“異常な”情報がメンデルの法則に従って伝達することを示した。さらに彼らは,ある遺伝子の間ではかならずしも〈独立の法則〉があてはまらず,連鎖や交叉(こうさ)という現象がおこることを示し,その結果,一群の遺伝子は規則正しく直線状に配列していることが明らかにされた。…
※「モーガン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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