共産主義者同盟(読み)キョウサンシュギシャドウメイ(英語表記)Bund der Kommunisten[ドイツ]

デジタル大辞泉 「共産主義者同盟」の意味・読み・例文・類語

きょうさんしゅぎしゃ‐どうめい【共産主義者同盟】

1847年にロンドンで結成された国際的な労働者組織。マルクスエンゲルスが著した「共産党宣言」を綱領とする。1848年の三月革命では民主主義陣営に加わり敗北。1852年に解散した。
昭和33年(1958)に、日本共産党から離脱した全学連主流派が結成した、新左翼系の過激派集団(第一次ブント)。60年安保闘争で主導的役割を担ったが、その指導責任をめぐって分裂し、解体。昭和41年(1966)に再建され(第二次ブント)、70年安保闘争を主導したが、昭和45年(1970)に再び解体。赤軍派など多数のセクトに分裂した。共産同。ブント。

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改訂新版 世界大百科事典 「共産主義者同盟」の意味・わかりやすい解説

共産主義者同盟 (きょうさんしゅぎしゃどうめい)
Bund der Kommunisten[ドイツ]

義人同盟を組織的母体とし,1847年6月および11~12月の2度にわたるロンドンでの同盟大会を経て結成された国際的革命組織。義人同盟の共産主義者同盟への発展・解消は,《共産党宣言》(1848年2月)が同盟の綱領文書として執筆された事実に象徴されるように,それまでマルクス,エンゲルスとW.ワイトリング,M.ヘスらのあいだで激しくたたかわされてきたドイツ革命戦略論争にマルクス,エンゲルスが勝利したことを意味し,ロンドンに置かれた同盟中央委員会は彼らの強い影響のもとにあった。また,組織原則の点でも,1847年12月8日付の規約にみられるとおり,民主集中制が原理的に貫徹する。これらの宣言と規約には,今日の共産党の原型となるものがもりこまれていた。ただし,上述のことはあくまでもロンドン,ブリュッセルの両地区および中央委員会に関してのみ言えるのであり,かつての義人同盟の拠点パリスイス等においては依然としてワイトリング派,C.グリューン派が勢力を保ちつづける。

 同盟にとっての最初の試練は48年革命であり,革命期の同盟は,同年3月末パリで作成された《ドイツにおける共産党の17要求》を綱領としてブルジョア民主主義革命を追求することになるのであるが,マルクスら主要な同盟員たちの活動は,1848年6月以降《新ライン新聞》の編集・発行に集中し,同盟はまったく表面に現れてこない。同盟がその姿を再び現すのは,革命敗北後の49年後半のことで,亡命の地ロンドンに結集しはじめたマルクス,エンゲルス,A.ウィリヒ,K.シャッパーらと,革命期もその地にとどまっていたC.プフェンダー,G.エッカリウスらによって中央委員会が再建されるのである。新中央委員会は50年3月および6月の2回の回状をとおして,プチブル民主主義者との組織的断絶,各地で自立したプロレタリア党の組織を方針として明確化すると同時に,ドイツ国内,スイス各地へ密使を派遣してこの方針の浸透および各班との連絡の回復,再組織をはかる。だが,こうして軌道に乗ったかにみえたロンドン新中央委員会の活動は,同年9月,マルクス=エンゲルス派とウィリヒ=シャッパー派への分裂という最大の困難に遭遇する。この分裂の原因は,マルクスが同年夏,経済過程の分析から,近い将来におけるヨーロッパ革命の可能性を否定したのに対し,ウィリヒ,シャッパーが即時蜂起路線に固執した点にあった。中央委員会内の多数派を占めたのはマルクス=エンゲルス派であったが,ウィリヒ=シャッパー派は,別個の中央委員会をつくって独自活動を繰り広げることとなった。

 このような組織的分裂に追打ちをかけたのがプロイセン警察の陰謀〈ケルン共産主義者裁判〉である。52年,この政治裁判においてケルン中央委員会の有力メンバーのほとんどに有罪判決が下されたのち,共産主義者同盟は52年11月,マルクスの提案によって正式に解散する。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「共産主義者同盟」の意味・わかりやすい解説

共産主義者同盟[ユーゴスラビア]
きょうさんしゅぎしゃどうめい[ユーゴスラビア]
Savez Kommunista Jugoslavia

略称 SKJ。旧ユーゴスラビアの政党。 1919年4月ユーゴスラビア共産党として創立されたが,1920年代末には非合法化された。第2次世界大戦中は,J.チトーの指導により対ナチス・パルチザン戦を行なった。 45年 11月,ソ連の援助によらず独力で解放をなしとげ,5つの民族を総合して統一国家を打立てた。 48年,ユーゴスラビアをソ連の利害のもとにおこうとするスターリンのソ連中心主義と鋭く対立し,コミンフォルムを除名された。以来,ユーゴスラビア共産党=チトー主義=民族主義的右翼的偏向として,ソ連およびおもに東ヨーロッパの他の社会主義諸国の共産主義政党から非難を浴び,各国からの経済封鎖など困難な時代を迎えた。 52年第6回大会で,党名をユーゴスラビア共産主義者同盟と改称,非同盟中立を堅持しながら西ヨーロッパ諸国と接近し,国内民主化,利潤方式の導入など諸政策を採用して独自な社会主義建設の道を進んだ。 58年,第7回大会で,この路線を徹底化した新綱領を採択,このためスターリンの死後改善されていたソ連との関係は再び悪化し,各国共産党も一斉にこの新綱領を批判した。しかし 61年以降は,次第にユーゴスラビアの立場が公認されるようになった。 37年の中央委員会設置以来,一貫してチトーの指導下にあったが,チトーが死ぬと国内の多民族を統合する力が失われ,ソ連を含めた東欧民主化の影響を受けた。 90年1月の臨時党大会でスロベニア共和国代表が民主集中制の否定を主張して認められず退場したことから分裂大会となり,同年5月に再開された大会にも,クロアチア,マケドニア両共和国代表も欠席し,党の分裂を決定づけた。これに対しセルビアを中心とする保守派は,党名を「セルビア社会党」に変更し,同年 12月に行われた自由選挙で第1党を確保した。しかし同年から内戦状態に入り,東欧革命の過程でユーゴスラビア自体が解体した。

共産主義者同盟
きょうさんしゅぎしゃどうめい
Bund der Kommunisten; Communist League

K.マルクス,F.エンゲルスによって指導された労働者階級の最初の国際的な秘密組織。同盟の始りは,1834年パリに亡命していた共産主義のドイツ人亡命者がつくった追放者同盟であり,36年この同盟中の主として職人や急進的インテリゲンチアから成る左翼が正義者同盟を組織した。 43年以来エンゲルスやマルクスの活動によって,W.ワイトリングらの陰謀的な共産主義から科学的共産主義へとその基本的理論を転換していった正義者同盟は,47年6月ロンドンで大会を開き,名称を共産主義者同盟と変更した。同時にスローガンも「すべての人は兄弟である」から「万国のプロレタリア団結せよ!」に代えられた。その理論的かつ実践的な綱領は,マルクス,エンゲルスによって起草され,48年『共産党宣言』として公表された。 50年の政治的内部対立と組織分裂,51年のケルン共産党支部の大量検挙による壊滅などによって組織運営が困難となり,マルクスの提案で 52年解散した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「共産主義者同盟」の意味・わかりやすい解説

共産主義者同盟
きょうさんしゅぎしゃどうめい
Bund der Kommunisten ドイツ語

マルクス主義に立脚する最初の国際的な労働者組織(1847~52)。マルクスとエンゲルスの指導のもとに、1847年7月義人同盟を改組してロンドンで結成された。成員は約500名で、ブリュッセル、パリ、スイス各地に散在したが、ドイツ人の手工業職人が比較的多かった。同盟の委託を受けてマルクスとエンゲルスが綱領的文書を作成し、48年2月「共産党宣言」としてこれを発表。同年三月革命が勃発(ぼっぱつ)すると、同盟は「ドイツ共産党の要求」を発表し、4月に本部をケルンに移した。革命期には共和主義、民主主義陣営に属し、各地の労働者協会などを拠点に革命の完成と労働者の啓蒙(けいもう)に努力したが、同盟内部に運動路線をめぐる対立があり、49年4月には民主派から離脱し、独自の労働者政党結成を試みた。革命の敗北後、成員の多くはドイツから亡命、52年秋のケルンにおける共産主義者裁判ののち同盟は解散した。

[末川 清]

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百科事典マイペディア 「共産主義者同盟」の意味・わかりやすい解説

共産主義者同盟【きょうさんしゅぎしゃどうめい】

1836年フランスに亡命したドイツ共和派革命家が結成した義人同盟を母体とし,1847年ロンドンで創立された組織。Bund der Kommunisten。マルクスエンゲルスが指導し,1848年〈共産党宣言〉を公表した。二月革命後の反動化の中で同盟員間の意見対立やプロイセン警察の陰謀によるケルン共産党事件が起こり,1853年解散した。
→関連項目共産党

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旺文社世界史事典 三訂版 「共産主義者同盟」の解説

共産主義者同盟
きょうさんしゅぎしゃどうめい
Bund der Kommunisten

1847年,プロレタリア革命を目的とし,マルクスとエンゲルスの指導下にロンドンで結成された国際的革命組織
初め空想的社会主義に立脚した義人同盟 (ぎじんどうめい) (1836年成立)がパリを本部に活動していたが,マルクスたちが加入して,1847年解散したのちにできたのがこの新組織。亡命ドイツ人を主体としたこの同盟の綱領として,マルクスが翌1848年2月『共産党宣言』を書き,おもにドイツで活躍,52年には運動方針をめぐって分裂・解散した。

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デジタル大辞泉プラス 「共産主義者同盟」の解説

共産主義者同盟

マルクスとエンゲルスの指導のもとに組織された、世界初の国際的労働者組織。パリ在住のドイツ人秘密結社「義人同盟」を改組し、1847年にロンドンで創設。この組織の綱領としてマルクスとエンゲルスが起草し、1848年に発表した文書が「共産党宣言」である。1852年解散。

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世界大百科事典(旧版)内の共産主義者同盟の言及

【学生運動】より

…学生党員は何の反省もなくすぐに平和路線に方針転換する党指導部への不信から虚脱状態になり,運動は急速に沈滞,各大学自治会の解体などがつづいた。 六全協による方向転換後,全学連などの学生運動を日常要求路線,身の回り主義へと指導しようとした共産党に対する反発は,全学連の共産党からの決別と,ブント(共産主義者同盟)の誕生(1958.12)をもたらすこととなった。ブントは59年6月の第14回大会で,日本トロツキスト連盟の改組によって生まれた革共同(革命的共産主義者同盟)から全学連の主導権を奪い,60年安保闘争(〈日米安全保障条約〉の項目を参照)で主導権を発揮した。…

【マルクス】より

… 46年に革命運動の組織的実践を開始,当時在住したブリュッセルを本拠にF.エンゲルスたちと組んで〈共産主義(国際)通信委員会〉を設立,その中心となった。その当時,ドイツ人労働者(職人)の共産主義組織〈義人同盟〉に分派闘争が発生,旧来のカリスマ的指導者W.ワイトリングを追い落とした新指導部のK.シャッパーやJ.モルたちと連携して〈共産主義者同盟〉に改組(1847),この組織の綱領として《共産党宣言》(1848)を執筆した。48年,ドイツ三月革命が勃発すると帰国,ケルンを拠点にして活躍し,《新ライン新聞》を刊行する。…

【48年革命】より

… 3月,舞台はドイツへ移った。フランスの共和国宣言が伝えられるとただちに西南ドイツの各地で人民集会が開かれ,ケルンでは〈共産主義者同盟〉員に組織された労働者独自のデモも行われた。ナッサウ,バーデン,ビュルテンベルクなどでは封建的賦課の廃止を求める農民の蜂起が起こり,シュレジエンやバイエルンなどにも広まっていった。…

※「共産主義者同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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