義人同盟を組織的母体とし,1847年6月および11~12月の2度にわたるロンドンでの同盟大会を経て結成された国際的革命組織。義人同盟の共産主義者同盟への発展・解消は,《共産党宣言》(1848年2月)が同盟の綱領文書として執筆された事実に象徴されるように,それまでマルクス,エンゲルスとW.ワイトリング,M.ヘスらのあいだで激しくたたかわされてきたドイツ革命戦略論争にマルクス,エンゲルスが勝利したことを意味し,ロンドンに置かれた同盟中央委員会は彼らの強い影響のもとにあった。また,組織原則の点でも,1847年12月8日付の規約にみられるとおり,民主集中制が原理的に貫徹する。これらの宣言と規約には,今日の共産党の原型となるものがもりこまれていた。ただし,上述のことはあくまでもロンドン,ブリュッセルの両地区および中央委員会に関してのみ言えるのであり,かつての義人同盟の拠点パリ,スイス等においては依然としてワイトリング派,C.グリューン派が勢力を保ちつづける。
同盟にとっての最初の試練は48年革命であり,革命期の同盟は,同年3月末パリで作成された《ドイツにおける共産党の17要求》を綱領としてブルジョア民主主義革命を追求することになるのであるが,マルクスら主要な同盟員たちの活動は,1848年6月以降《新ライン新聞》の編集・発行に集中し,同盟はまったく表面に現れてこない。同盟がその姿を再び現すのは,革命敗北後の49年後半のことで,亡命の地ロンドンに結集しはじめたマルクス,エンゲルス,A.ウィリヒ,K.シャッパーらと,革命期もその地にとどまっていたC.プフェンダー,G.エッカリウスらによって中央委員会が再建されるのである。新中央委員会は50年3月および6月の2回の回状をとおして,プチブル民主主義者との組織的断絶,各地で自立したプロレタリア党の組織を方針として明確化すると同時に,ドイツ国内,スイス各地へ密使を派遣してこの方針の浸透および各班との連絡の回復,再組織をはかる。だが,こうして軌道に乗ったかにみえたロンドン新中央委員会の活動は,同年9月,マルクス=エンゲルス派とウィリヒ=シャッパー派への分裂という最大の困難に遭遇する。この分裂の原因は,マルクスが同年夏,経済過程の分析から,近い将来におけるヨーロッパ革命の可能性を否定したのに対し,ウィリヒ,シャッパーが即時蜂起路線に固執した点にあった。中央委員会内の多数派を占めたのはマルクス=エンゲルス派であったが,ウィリヒ=シャッパー派は,別個の中央委員会をつくって独自活動を繰り広げることとなった。
このような組織的分裂に追打ちをかけたのがプロイセン警察の陰謀〈ケルン共産主義者裁判〉である。52年,この政治裁判においてケルン中央委員会の有力メンバーのほとんどに有罪判決が下されたのち,共産主義者同盟は52年11月,マルクスの提案によって正式に解散する。
執筆者:松岡 晋
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マルクス主義に立脚する最初の国際的な労働者組織(1847~52)。マルクスとエンゲルスの指導のもとに、1847年7月義人同盟を改組してロンドンで結成された。成員は約500名で、ブリュッセル、パリ、スイス各地に散在したが、ドイツ人の手工業職人が比較的多かった。同盟の委託を受けてマルクスとエンゲルスが綱領的文書を作成し、48年2月「共産党宣言」としてこれを発表。同年三月革命が勃発(ぼっぱつ)すると、同盟は「ドイツ共産党の要求」を発表し、4月に本部をケルンに移した。革命期には共和主義、民主主義陣営に属し、各地の労働者協会などを拠点に革命の完成と労働者の啓蒙(けいもう)に努力したが、同盟内部に運動路線をめぐる対立があり、49年4月には民主派から離脱し、独自の労働者政党結成を試みた。革命の敗北後、成員の多くはドイツから亡命、52年秋のケルンにおける共産主義者裁判ののち同盟は解散した。
[末川 清]
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…学生党員は何の反省もなくすぐに平和路線に方針転換する党指導部への不信から虚脱状態になり,運動は急速に沈滞,各大学自治会の解体などがつづいた。 六全協による方向転換後,全学連などの学生運動を日常要求路線,身の回り主義へと指導しようとした共産党に対する反発は,全学連の共産党からの決別と,ブント(共産主義者同盟)の誕生(1958.12)をもたらすこととなった。ブントは59年6月の第14回大会で,日本トロツキスト連盟の改組によって生まれた革共同(革命的共産主義者同盟)から全学連の主導権を奪い,60年安保闘争(〈日米安全保障条約〉の項目を参照)で主導権を発揮した。…
… 46年に革命運動の組織的実践を開始,当時在住したブリュッセルを本拠にF.エンゲルスたちと組んで〈共産主義(国際)通信委員会〉を設立,その中心となった。その当時,ドイツ人労働者(職人)の共産主義組織〈義人同盟〉に分派闘争が発生,旧来のカリスマ的指導者W.ワイトリングを追い落とした新指導部のK.シャッパーやJ.モルたちと連携して〈共産主義者同盟〉に改組(1847),この組織の綱領として《共産党宣言》(1848)を執筆した。48年,ドイツ三月革命が勃発すると帰国,ケルンを拠点にして活躍し,《新ライン新聞》を刊行する。…
… 3月,舞台はドイツへ移った。フランスの共和国宣言が伝えられるとただちに西南ドイツの各地で人民集会が開かれ,ケルンでは〈共産主義者同盟〉員に組織された労働者独自のデモも行われた。ナッサウ,バーデン,ビュルテンベルクなどでは封建的賦課の廃止を求める農民の蜂起が起こり,シュレジエンやバイエルンなどにも広まっていった。…
※「共産主義者同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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