イゼトベゴビッチ(読み)いぜとべごびっち(その他表記)Alija Izetbegović

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イゼトベゴビッチ」の意味・わかりやすい解説

イゼトベゴビッチ
いぜとべごびっち
Alija Izetbegović
(1925―2003)

ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家。ボスニア北部とクロアチアスラボニアとの境界に位置するスラボンスキ・シャマツで生まれた。ムスリム人の家庭で成長し、青年時代を通してムスリム民族主義者として自己形成を遂げた。サライエボ大学法学部卒業。第二次世界大戦後、社会主義政権下で企業の法律コンサルタントをしながら、ムスリム民族主義運動の中心人物となり、運動の扇動を企てたとの容疑で、1957年と1983年に逮捕されている。しかし1970年に執筆し、1990年に出版された『ムスリム宣言』の内容からして、彼を「イスラム原理主義者」とするきめつけはあたらない。その後1989年にムスリム民族主義を掲げた民主行動党を創設、同党は1990年の複数政党制による初の自由選挙で第一党となり、イゼトベゴビッチはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国幹部会議長に選出された。ボスニアの独立を進め、1992年に内戦が開始された後も原則的にはボスニアの分割に反対してきた。しかし、アメリカ主導によるデイトンでの紛争3当事国の和平交渉に代表として臨み、実質的なボスニアの2分割承認で妥協した結果、1995年11月、和平合意が成立した。このデイトン合意に基づき、1996年9月に実施された統一選挙で、ムスリム人、セルビア人クロアチア人の3勢力から1人ずつで構成される共和国大統領選挙に最高得票で選出され、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国大統領会議議長に就任した。この「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(ムスリムとクロアチア人勢力から構成)と「セルビア人共和国」からなる統一ボスニアをいかに回復するかが最大の課題であったが、イゼトベゴビッチは2000年10月に高齢と健康不安を理由として政界からの引退を表明した。

[柴 宜弘]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イゼトベゴビッチ」の意味・わかりやすい解説

イゼトベゴビッチ
Izetbegović, Alija

[生]1925.8.8. セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国,ボサンスキ・シャマツ
[没]2003.10.19. ボスニア・ヘルツェゴビナ,サラエボ
ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家。スラブ人イスラム教徒ムスリム)の家庭で育ち,1930年代家族とともにサラエボに移った。サラエボ大学で法律の学位を取得。青年時代にムスリム民族主義に目ざめ,旧ユーゴスラビアの自主管理社会主義(→労働者自主管理)体制下で,1957年と 1983年の 2度,ムスリム民族主義の扇動を企てたという容疑で逮捕された。1990年に著書『イスラム宣言』The Islamic Declarationを出版。1990年11月,ボスニア・ヘルツェゴビナで初の複数政党制による自由選挙が実施され,ムスリム,セルビア人クロアチア人の 3民族がそれぞれ民族政党を結成して選挙に臨んだ。このとき,それまで運輸関係の顧問弁護士をしていたイゼトベゴビッチは,ムスリム政党の民主行動党の党首となり,第一党に導いた。同 1990年12月,旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国幹部会議長(大統領)に就任。1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナの独立を宣言したが,3民族の確執が内戦に発展(→ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)。イゼトベゴビッチは 3民族共存の可能性を一貫して主張し,ヨーロッパ共同体 EC国際連合による 3分割和平案に反対したが,最終的には 2分割で妥協し,1995年12月デートン和平合意が成立した。翌 1996年,新国家の各勢力を代表する 3人の幹部からなる大統領会議議長に選出。2000年政界引退。

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