日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラインハート」の意味・わかりやすい解説
ラインハート
らいんはーと
Ad Reinhardt
(1913―1967)
アメリカの画家。ニューヨーク州バッファローに生まれる。両親ともドイツ系。幼少時、誕生日にクレヨンをプレゼントされたのがきっかけで美術に関心をもちはじめ、多くのコンクールに入選するなど、ハイスクール時代から活躍する。1931年、コロンビア大学に入学して美術史家メイヤー・シャピロと出会い、さらに36~37年にはナショナル・アカデミー・オブ・デザインやアメリカン・アーティスト・スクールでも美術を学ぶ。当初はカール・ホルティCarl Holty(1900―73)とフランシス・クリスFrancis Criss(1901―73)に師事し、グリスやモンドリアンの影響を受けるなど幾何学的な抽象絵画を強く志向する。アメリカ抽象美術家協会(AAA)にも加入(53年まで在籍)していたが、徐々にグリスやモンドリアンに代表される30年代的な抽象絵画からは遠ざかっていく。
第二次世界大戦中にはカメラマンとして従軍し、復員後にはバーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、ロバート・マザウェルRobert Motherwell(1915―91)らの色面派(色彩のある面や縞で構成された絵画を主とする)に接近する。46年にはベティ・パーソンズ・ギャラリーで初個展を開催、翌47年にはニューマンが企画した同ギャラリーの「イデオグラフィック絵画」展に出品、またブルックリン大学にポストを得るなど、徐々に自分のポジションを固めていった。この一連のキャリアによって、ラインハートは抽象表現主義の一翼を担う作家と認知されることになる。
その後ラインハートは、自らの絵画の純度を高めるべく、一切の不調和・不規則性を排除することを試み、53年を最後に有彩色の絵を描くことを止める。そしてカリカチュアやコラージュ制作に専念した時期を経て、60年以降は画面全体を黒一色で覆い尽くした「ブラック・ペインティング」シリーズの制作に専念するようになる。それは徹底して意味を排除し、無機的な半面どこか宗教的でさえある絵画だった。そしてこのシリーズはポロックのドリッピング絵画(床に置いたキャンバスに絵の具を垂らす)に代表される、抽象表現主義から離脱した新しい絵画の地平を示した。同時に、ミニマリズムの先鞭をつけたラインハートの代名詞的作品の始まりだった。
ラインハートは潔癖なまでの芸術至上主義者であり、たとえMoMA(ニューヨーク近代美術館)やメトロポリタン美術館のような相手であっても、前衛芸術の敵とみなせば容赦なく敵対した。そうした彼の芸術至上主義は、58年ごろからモンドリアンやマレービチの思想、あるいは東洋思想をも独自の観点から取り入れた「アート・アズ・アート」(芸術としての芸術)という概念の中に織り込まれており、「ブラック・ペインティング」にはその実践としての側面も指摘することができる。
[暮沢剛巳]
『「戦後アメリカ絵画の栄光 1950年代/1960年代」(カタログ。1989・滋賀県立近代美術館)』