アメリカの映画音楽作曲家。アメリカのショービジネス界に強い影響を及ぼすニューマン一族の出身であると同時に、前衛的なサウンドを志向することでアメリカ映画音楽の刷新を図るユニークな存在である。ハリウッド映画音楽の黄金期を築きあげたアルフレッド・ニューマンAlfred Newman(1901―1970)の第8子としてロサンゼルスに生まれる。兄デビッド・ニューマンDavid Newman(1954― )、いとこのランディ・ニューマンRandy Newman(1943― )も映画音楽の分野で活躍。叔父ライオネル・ニューマンLionel Newman(1916―1989)が20世紀フォックス映画音楽部長を務めていたこともあり、映画音楽録音の現場で少年時代を過ごす恵まれた環境で育った。当初は映画音楽作曲家を目ざすつもりはなく、スポーツにはげむ一方、ピアノとバイオリンの習得に意欲を燃やしていた。南カリフォルニア大学でデビッド・ラクシンDavid Raksin(1912―2004)に作曲を師事した後、エール大学でジェイコブ・ドラックマンJacob Druckman(1928―1996)に師事し、修士課程を修了。卒業後はスティーブン・ソンドハイムStephen Sondheim(1930―2021)のもとで舞台音楽を制作。このほか、ジ・イノセンツおよびトーキョー77の二つのロックバンドでキーボード演奏を担当した。
叔父ライオネルの推薦でジョン・ウィリアムズが作曲を手がけた『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐(ふくしゅう)』(1983)のオーケストレーションを一部担当。長年の友人であった映画プロデューサー、スコット・ルーディンScott Rudin(1958― )の依頼で長編映画第一作『俺たちの明日』(1984)の音楽を担当し、映画音楽作曲家としての道を本格的に歩み出す。『マドンナのスーザンを探して』(1985)でニューマンは初めてエレクトロニクス、エスニック、ミニマリズムといった自らの音楽的嗜好(しこう)を存分に表現し、伝統的なオーケストラ・サウンドによる映画音楽とは一線を画す意志を明らかにした。
電子音楽とオーケストラの融合を試みた『レス・ザン・ゼロ』(1987)はニューマンの実験作曲家的側面を鋭く打ちだしたものであるが、一方、豊かな音色のパレットを自在に使いこなせることから、コミカルな作品にも重宝されるようになる。『若草物語』と『ショーシャンクの空に』(ともに1994)でアカデミー作曲賞ダブル・ノミネートを果たしてから、以前にも増して人間ドラマを的確に音楽化する手腕が高く評価されるようになった。いたずらに感情の振幅を強調することなく、作品の核となる劇的要素をピアノによって表現する慎(つつ)ましさはニューマンの一つの特徴であり、そのため一時期は『モンタナの風に抱かれて』『ジョー・ブラックをよろしく』(ともに1998)、『グリーンマイル』(1999)など、長尺のドラマ作品に好んで起用された。
こうしたニューマンの傾向を高い次元で融合させたのが、サム・メンデスSam Mendes(1965― )監督と初めて組んだ『アメリカン・ビューティー』(1999)の音楽である。マレット楽器(木琴やビブラフォンなど、音板を撥(ばち)で叩く楽器の総称)やアフリカン・ドラムを主体としたサウンドが、混乱した価値観のなかに生きる現代アメリカ人の姿にみごとにマッチし、アカデミー最優秀音楽賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)およびグラミー賞最優秀スコア・サウンドトラック賞受賞など、高い評価を得た。その結果、ニューマンは以前にも増してアメリカ社会のモラルを問う社会派作品を多く手がけるようになり、『エリン・ブロコビッチ』『ペイ・フォワード/可能の王国』(ともに2000)、『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、それにメンデス監督との2作目『ロード・トゥ・パーディション』(2002)などに具体的な成果をみいだすことができる。
ドラマの内容によっては父アルフレッド譲りの饒舌(じょうぜつ)なストリングスを用いるものの、一方で音楽を「音響」としてとらえ、民族音楽や現代音楽への強い関心をあらわにしながら映画音楽の伝統を崩そうとする改革者の側面をもあわせもつ。ニューマンの試みはいわばハリウッド映画音楽内部からの構造改革であり、アメリカ映画全体の方向性を占ううえでも重要な存在である。
[前島秀国]
『Daniel SchweigerAn Interview with Thomas Newman (in Soundtrack No.38, 1991, Super Collector, Mechelen)』▽『Daniel SchweigerScoring the Shawshank Redemption (in Film Score Monthly No.51, November 1994, Film Score Monthly, Culver City)』▽『Darren CavanaghA Refreshing Alternative (in Music from the Movies No.8, Spring 1995, Music from the Movies, Bristol)』
イギリスの神学者、枢機卿(すうききょう)。銀行家の子としてロンドンに生まれる。1817年にオックスフォード大学のトリニティ・カレッジに入学し、1821年に卒業。1824年にイングランド教会の聖職者となり、1828年にオックスフォードの聖マリア教会の牧師に任ぜられ、さらに1831年から大学説教師となった。思想的には、同僚フルードRichard Hurrell Froud(1803―1836)、キーブルらの影響を受けてアングロ・カトリック主義の立場にたち、その説教は青年、学生に大きな感銘を与えた。1833年からキーブルらとイングランド教会の信仰復興を志して『時局小冊子(トラクト)』Tracts for the Timesを発行し、いわゆるオックスフォード運動を展開した。しかし1841年『時局小冊子』90号で「39か条」The Thirty-Nine Articlesをカトリックの信条と両立しうるものであると解釈したため、『時局小冊子』の発行が禁止され、また自らもイングランド教会に疑問を抱き、1843年聖職を辞してリトルモアに隠退した。1845年にカトリックに改宗してローマに赴き、1847年司祭に叙品(じょひん)され、1849年バーミンガムにオラトリオ会を創設し、のちロンドンにもつくられた同会の修道院、学校の経営にあたり、生涯をバーミンガムに過ごした。その間1854年から1858年までダブリンのカトリック大学総長の地位にあったが、不本意のうちに帰国。1879年教皇レオ13世によって枢機卿に任ぜられた。神学者、哲学者また詩人として多くの著作があるが、彼はイギリスのカトリックの発展に寄与したばかりでなく、全イギリスの宗教界・思想界に大きな影響を与えた。
[曽根暁彦 2017年12月12日]
アメリカの映画俳優。オハイオ州クリーブランドに生まれる。エール大学演劇学部を中退、ブロードウェーの舞台で注目されて映画界入り。確実な演技とクールで知的な個性で人気をよぶ。『熱いトタン屋根の猫』(1958)、『ハスラー』(1961)、『暴力脱獄』(1967)、『明日に向って撃て!』(1969)、『スティング』(1973)、『評決』(1982)、『ハスラー2』(1986、アカデミー主演男優賞受賞)、『プレイズ』(1989)、『ミスター&ミセス・ブリッジ』(1990)、『ノーバディーズ・フール』(1994)、『メッセージ・イン・ア・ボトル』(1999)が代表作。夫人ジョアンヌ・ウッワードJoanne Woodward(1930― )との共演作が多い。
[日野康一]
『梶原和男編『ポール・ニューマン ミスター・ブルーアイズ』(1983・芳賀書店)』▽『エレナ・ウーマノ著、川口敦子訳『ポール・ニューマン』(1989・近代映画社)』▽『ジョー・モレラ他著、相原真理子訳『ポールとジョアン――ポール・ニューマン夫妻の仕事と生活』(1990・早川書房)』
アメリカの画家、彫刻家。典型的な抽象表現主義作家の1人。ニューヨーク市に生まれ、アート・スチューデンツ・リーグ、ニューヨーク市立大学に学ぶ。1948年にロスコらとともに「芸術家の主題」という名の美術学校を創設する。初めシュルレアリスム、抽象主義の影響を受けたが、それらを否定し、50年代に入って平面的な空間における色彩表現の可能性を追求し、新たな抽象絵画を制作する。巨大な色面にジップと称された線を配する絵画は、過去の造形を超えた構造を有し、カラー・フィールド・ペインティング(色彩の場の絵画)の起点ともなったが、そこには深い精神性が秘められている。代表作に『崇高にして英雄的な人』(1950~51)がある。
[藤枝晃雄]
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イギリスのカトリック神学者,枢機卿。オックスフォード大学で学び,英国国教会の聖職者になるが,R.H.フルード,J.キーブルらとの親交によってカトリックに近い高教会派になり,オックスフォード運動を指導,《時局双書》を主宰する。その90号(1841)が国教会内にまき起こした波紋を契機にカトリックに改宗(1845),ローマに行き司祭に任じられた。みずからも詩・小説を書くなど多才であったが,帰国後,文学史上の〈カトリック復興〉に刺激を与え,G.M.ホプキンズ,C.K.D.パトモア,F.トムソン,G.K.チェスタートン,J.H.P.ベロック,E.ウォー,G.グリーンら改宗者の文学活動の礎を築いた。オラトリオ会をイギリスに創設,ダブリン・カトリック大学の学長をつとめたが,同年輩で社会運動を推進したマニング枢機卿とはそりが合わず,当時の教会当局からは自由主義的傾向をもつとして歓迎されず,晩年になり,開明的教皇レオ13世によって枢機卿に任ぜられた。著書は《キリスト教教義の発展》(1845),《弁明》(1864)など多数。
執筆者:高柳 俊一
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イギリスの神学者,枢機卿。銀行家の息子としてロンドンに生まれる。1817年,16歳でオックスフォード大学トリニティ・カレッジに入学し,翌年カレッジ奨学金を得る。1820年に学位取得。1822年には競争試験により,オリエル・カレッジのフェローシップを獲得し学生教育に携わった。1824年に聖職者となり,28年にオックスフォード,セント・メアリー教会の牧師となる。J. キーブルらの影響から高教会派に転じ,イングランド国教会(イギリス国教会)刷新運動であるオックスフォード運動では指導的人物の一人として,大学の宗教基盤を堅持する立場から多くのトラクト(小冊子)の編集・執筆を行った。1843年にセント・メアリー教会の牧師職を辞任し,45年カトリック教に改宗。その後,ダブリンのカトリック大学設立に関わり,1852年に大学教育についての講演を行う。この講演や大学教育に関するエッセイをまとめた著作が1873年に『大学の理念』として出版され,北米を中心に教養教育論に大きな影響を与えた。
著者: 中村勝美
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
1801~90
イギリスの神学者。オクスフォード大学に学び,卒業後イングランド国教会の聖職者,大学教会の牧師となり,カトリック寄りの高教会主義の立場から,1833年以降古代キリスト教会の精神に立ち戻り,俗権の支配を排除して,社会的義務を果たすべきとするオクスフォード運動に参加。『時局小冊子』を刊行して,45年カトリックに改宗,54~58年ダブリンに新設のカトリック大学学長,79年枢機卿となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…当時の国教会は規律の弛緩,神学上のリベラリズムの影響,カトリック教会の勢力強化などにより危機的状態にあったが,キーブルJohn Keble(1792‐1866)のオックスフォードにおける〈国民的背教〉と題する説教(1833年7月14日)をきっかけとして英国国教会を17世紀の国教会神学者たちのかかげる高教会の理想に従って改革再建する運動がおこった。この運動の中心的指導者はキーブル,J.H.ニューマン,ピュージーEdward B.Pusey(1800‐82)で,《時局小冊子Tracts for the Times》(1833年ニューマンによって始められる)という文書活動によって推進された。それゆえオックスフォード運動は〈トラクト運動Tractarian Movement〉ともいわれた。…
…17世紀に入るとアンドルーズLancelot Andrewes,ロードWilliam Laudらがピューリタンに対して教会のカトリック性を強調し,ロードがピューリタン革命で処刑されたこともあって,王政復古時には高教会派が主導権を得た。名誉革命後,ウィリアム3世への臣従を拒否したものが高教会派に多かったため,教会と国家の首脳部が低教会派を優遇する時代が続いたが,キーブルJohn Keble,ピュージーEdward Bouverie Pusey,J.H.ニューマンらのオックスフォード運動によって,高教会派はふたたび活気づけられ,以後アングリカン・チャーチ内の一大勢力として今日に至っている。高教会派のなかでよりカトリック的な立場はアングロ・カトリック主義と呼ばれ,16世紀の宗教改革者らの貢献を否定し,礼拝・信仰生活面でカトリック的慣行を大幅に復活させたため,低教会派の厳しい批判を受けた。…
※「ニューマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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