ニューマン(読み)にゅーまん(英語表記)John Henry Newman

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニューマン」の意味・わかりやすい解説

ニューマン(Thomas Newman)
にゅーまん
Thomas Newman
(1955― )

アメリカの映画音楽作曲家。アメリカのショービジネス界に強い影響を及ぼすニューマン一族の出身であると同時に、前衛的なサウンドを志向することでアメリカ映画音楽の刷新を図るユニークな存在である。ハリウッド映画音楽の黄金期を築きあげたアルフレッド・ニューマンAlfred Newman(1901―1970)の第8子としてロサンゼルスに生まれる。兄デビッド・ニューマンDavid Newman(1954― )、いとこのランディ・ニューマンRandy Newman(1943― )も映画音楽の分野で活躍。叔父ライオネル・ニューマンLionel Newman(1916―1989)が20世紀フォックス映画音楽部長を務めていたこともあり、映画音楽録音の現場で少年時代を過ごす恵まれた環境で育った。当初は映画音楽作曲家を目ざすつもりはなく、スポーツにはげむ一方、ピアノとバイオリンの習得に意欲を燃やしていた。南カリフォルニア大学でデビッド・ラクシンDavid Raksin(1912―2004)に作曲を師事した後、エール大学でジェイコブ・ドラックマンJacob Druckman(1928―1996)に師事し、修士課程を修了。卒業後はスティーブン・ソンドハイムStephen Sondheim(1930―2021)のもとで舞台音楽を制作。このほか、ジ・イノセンツおよびトーキョー77の二つのロックバンドでキーボード演奏を担当した。

 叔父ライオネルの推薦でジョン・ウィリアムズが作曲を手がけた『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐(ふくしゅう)』(1983)のオーケストレーションを一部担当。長年の友人であった映画プロデューサー、スコット・ルーディンScott Rudin(1958― )の依頼で長編映画第一作『俺たちの明日』(1984)の音楽を担当し、映画音楽作曲家としての道を本格的に歩み出す。『マドンナのスーザンを探して』(1985)でニューマンは初めてエレクトロニクスエスニックミニマリズムといった自らの音楽的嗜好(しこう)を存分に表現し、伝統的なオーケストラ・サウンドによる映画音楽とは一線を画す意志を明らかにした。

 電子音楽とオーケストラの融合を試みた『レス・ザン・ゼロ』(1987)はニューマンの実験作曲家的側面を鋭く打ちだしたものであるが、一方、豊かな音色のパレットを自在に使いこなせることから、コミカルな作品にも重宝されるようになる。『若草物語』と『ショーシャンクの空に』(ともに1994)でアカデミー作曲賞ダブル・ノミネートを果たしてから、以前にも増して人間ドラマを的確に音楽化する手腕が高く評価されるようになった。いたずらに感情の振幅を強調することなく、作品の核となる劇的要素をピアノによって表現する慎(つつ)ましさはニューマンの一つの特徴であり、そのため一時期は『モンタナの風に抱かれて』『ジョー・ブラックをよろしく』(ともに1998)、『グリーンマイル』(1999)など、長尺のドラマ作品に好んで起用された。

 こうしたニューマンの傾向を高い次元で融合させたのが、サム・メンデスSam Mendes(1965― )監督と初めて組んだ『アメリカン・ビューティー』(1999)の音楽である。マレット楽器(木琴やビブラフォンなど、音板を撥(ばち)で叩く楽器の総称)やアフリカン・ドラムを主体としたサウンドが、混乱した価値観のなかに生きる現代アメリカ人の姿にみごとにマッチし、アカデミー最優秀音楽賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)およびグラミー賞最優秀スコア・サウンドトラック賞受賞など、高い評価を得た。その結果、ニューマンは以前にも増してアメリカ社会のモラルを問う社会派作品を多く手がけるようになり、『エリン・ブロコビッチ』『ペイ・フォワード/可能の王国』(ともに2000)、『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、それにメンデス監督との2作目『ロード・トゥ・パーディション』(2002)などに具体的な成果をみいだすことができる。

 ドラマの内容によっては父アルフレッド譲りの饒舌(じょうぜつ)なストリングスを用いるものの、一方で音楽を「音響」としてとらえ、民族音楽や現代音楽への強い関心をあらわにしながら映画音楽の伝統を崩そうとする改革者の側面をもあわせもつ。ニューマンの試みはいわばハリウッド映画音楽内部からの構造改革であり、アメリカ映画全体の方向性を占ううえでも重要な存在である。

[前島秀国]

『Daniel SchweigerAn Interview with Thomas Newman (in Soundtrack No.38, 1991, Super Collector, Mechelen)』『Daniel SchweigerScoring the Shawshank Redemption (in Film Score Monthly No.51, November 1994, Film Score Monthly, Culver City)』『Darren CavanaghA Refreshing Alternative (in Music from the Movies No.8, Spring 1995, Music from the Movies, Bristol)』


ニューマン(John Henry Newman)
にゅーまん
John Henry Newman
(1801―1890)

イギリスの神学者、枢機卿(すうききょう)。銀行家の子としてロンドンに生まれる。1817年にオックスフォード大学のトリニティ・カレッジに入学し、1821年に卒業。1824年にイングランド教会の聖職者となり、1828年にオックスフォード聖マリア教会の牧師に任ぜられ、さらに1831年から大学説教師となった。思想的には、同僚フルードRichard Hurrell Froud(1803―1836)、キーブルらの影響を受けてアングロ・カトリック主義の立場にたち、その説教は青年、学生に大きな感銘を与えた。1833年からキーブルらとイングランド教会の信仰復興を志して『時局小冊子(トラクト)』Tracts for the Timesを発行し、いわゆるオックスフォード運動を展開した。しかし1841年『時局小冊子』90号で「39か条」The Thirty-Nine Articlesをカトリックの信条と両立しうるものであると解釈したため、『時局小冊子』の発行が禁止され、また自らもイングランド教会に疑問を抱き、1843年聖職を辞してリトルモアに隠退した。1845年にカトリックに改宗してローマに赴き、1847年司祭に叙品(じょひん)され、1849年バーミンガムオラトリオ会を創設し、のちロンドンにもつくられた同会の修道院、学校の経営にあたり、生涯をバーミンガムに過ごした。その間1854年から1858年までダブリンのカトリック大学総長の地位にあったが、不本意のうちに帰国。1879年教皇レオ13世によって枢機卿に任ぜられた。神学者、哲学者また詩人として多くの著作があるが、彼はイギリスのカトリックの発展に寄与したばかりでなく、全イギリスの宗教界・思想界に大きな影響を与えた。

[曽根暁彦 2017年12月12日]


ニューマン(Paul Newman)
にゅーまん
Paul Newman
(1926―2008)

アメリカの映画俳優。オハイオ州クリーブランドに生まれる。エール大学演劇学部を中退、ブロードウェーの舞台で注目されて映画界入り。確実な演技とクールで知的な個性で人気をよぶ。『熱いトタン屋根の猫』(1958)、『ハスラー』(1961)、『暴力脱獄』(1967)、『明日に向って撃て!』(1969)、『スティング』(1973)、『評決』(1982)、『ハスラー2』(1986、アカデミー主演男優賞受賞)、『プレイズ』(1989)、『ミスター&ミセス・ブリッジ』(1990)、『ノーバディーズ・フール』(1994)、『メッセージ・イン・ア・ボトル』(1999)が代表作。夫人ジョアンヌ・ウッワードJoanne Woodward(1930― )との共演作が多い。

[日野康一]

『梶原和男編『ポール・ニューマン ミスター・ブルーアイズ』(1983・芳賀書店)』『エレナ・ウーマノ著、川口敦子訳『ポール・ニューマン』(1989・近代映画社)』『ジョー・モレラ他著、相原真理子訳『ポールとジョアン――ポール・ニューマン夫妻の仕事と生活』(1990・早川書房)』


ニューマン(Barnett Newman)
にゅーまん
Barnett Newman
(1905―1970)

アメリカの画家、彫刻家。典型的な抽象表現主義作家の1人。ニューヨーク市に生まれ、アート・スチューデンツ・リーグ、ニューヨーク市立大学に学ぶ。1948年にロスコらとともに「芸術家の主題」という名の美術学校を創設する。初めシュルレアリスム、抽象主義の影響を受けたが、それらを否定し、50年代に入って平面的な空間における色彩表現の可能性を追求し、新たな抽象絵画を制作する。巨大な色面にジップと称された線を配する絵画は、過去の造形を超えた構造を有し、カラー・フィールド・ペインティング(色彩の場の絵画)の起点ともなったが、そこには深い精神性が秘められている。代表作に『崇高にして英雄的な人』(1950~51)がある。

[藤枝晃雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニューマン」の意味・わかりやすい解説

ニューマン
Newman, Paul

[生]1925.1.26. オハイオ,クリーブランド
[没]2008.9.26. コネティカット,ウェストポート
アメリカ合衆国の映画俳優。カリスマ性のある二枚目俳優として,20世紀後半を通じて第一線で活躍した。第2次世界大戦に海軍の通信兵として従軍,除隊後オハイオ州のケニヨン大学で学ぶ。その後,エール大学の大学院で 1年間演劇を勉強したが,ニューヨークのアクターズ・スタジオでより多くのことを学んだ。ブロードウェーの初舞台『ピクニック』Picnic(1953)が評価され,ワーナー・ブラザーズと専属契約を交わす。ボクシングの世界チャンピオン,ロッキー・グラジアノの伝記映画『傷だらけの栄光』Somebody Up There Likes Me(1956)で称賛を浴び,俳優としての地位を確立。『熱いトタン屋根の猫』Cat on a Hot Tin Roof(1958)で初めてアカデミー賞主演男優賞候補となった。『ハスラー』Hustler(1961)では,おそらく生涯最高の役である賭けビリヤードのプロを好演。ロバート・レッドフォード,ジョージ・ロイ・ヒル監督と組んだ『明日に向って撃て!』Butch Cassidy and the Sundance Kid(1969),『スティング』The Sting(1973,アカデミー賞作品賞)は大ヒットした。計 6回のノミネートと名誉賞の受賞を経たのち,マーティン・スコセッシ監督の『ハスラー 2』The Color of Money(1986)でついにアカデミー賞主演男優賞を獲得した。監督としても活躍し,2人目の妻で女優のジョアン・ウッドワードをたびたび主役に起用。監督第一作の『レーチェル レーチェル』Rachel, Rachel(1968)は,アカデミー賞作品賞候補となった。1982年に食品会社を設立,利益をさまざまな慈善活動に寄付した。

ニューマン
Newman, William H.

[生]1909.10.19. フィラデルフィア
[没]2002
アメリカの経営学者。 1930年フレンド大学卒業,1934年シカゴ大学で博士号を取得。その後企業に勤務したが,独立して 1936~38年経営コンサルタント,1939年ペンシルバニア大学教授,1949年コロンビア大学経営学研究科教授。この間いくつかの会社の役員を務めたほか,第2次世界大戦中は陸軍省で軍需産業の管理にあたった。 American Management Association,Society for Advancement of Management,Academy of Managementなどの会員で,アメリカ経営学会においても指導的役割を果した。彼の学説は「管理者管理範囲説」として知られる。すなわち管理職位の層が上級になればなるほど計画に要する時間がふえるので,管理の範囲は小さくなるというもの。主著『経営方針』 Business Policies and Management (1940) ,『経営管理』 Administrative Action (1951) ,『発展する企業の経営管理』 Management of Expanding Enterprises (1955) ,『経営学の過程』 The Process of Management (1961,C. E.サマー Jr.と共著) 。

ニューマン
Newman, Barnett

[生]1905.1.29. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]1970.7.3. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の抽象表現主義の画家。本名 Baruch Newman。カラー=フィールド・ペインティングの代表的作家。アート・スチューデンツ・リーグとニューヨーク市立大学,コーネル大学に学ぶ。サスカチュワン大学,ペンシルバニア大学で教えた。1950年ニューヨークで最初の個展。1948年にマーク・ロスコ,ロバート・マザーウェルとともに「芸術家の主題」と呼ばれる美術学校を設立。巨大な画面を少ない色数で地と図の区別なく塗り込めた画面が特徴。主要作品『十字架の道行き』シリーズ。(→現代美術

ニューマン
Newman, John Henry

[生]1801.2.21. ロンドン
[没]1890.8.11. バーミンガム
イギリス国教会のオックスフォード運動指導者。オックスフォードのトリニティ学寮に学んだ。母校の教職を経て,1828~43年聖マリア教会牧師,J.キーブルらの影響で高教会派となった。 33年オックスフォード運動が始ると機関紙を編集,みずから 24のトラクトを執筆,運動に指導的役割を果したが次第に孤立,のちローマ・カトリック教会のみを真正として同教会に改宗,79年枢機卿となった。詩人でもあり,宗教詩集がある。著書『アポロギア』 Apologia pro vita sua (64) ,『グラマー・オブ・アセント』 An Essay in Aid of a Grammar of Assent (70) 。

ニューマン
Newman

オーストラリア,ウェスタンオーストラリア州北西部,ピルバラ地方の鉄鉱石鉱山町の一つ。ポートヘドランドの南 456km,パースの北東 1177kmにあり,ポートヘドランドとの間に鉄鉱石専用鉄道 (426km) がある。鉄鉱石開発に伴い 1969年に建設された。ポートヘドランドを通じておもに日本へ鉄鉱石を輸出する。人口 4899 (1986) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報