一ッ松村
ひとつまつむら
[現在地名]長生村一松・一松飛地・驚・驚飛地、一宮町船頭給・新地
入山須村の南に位置し、九十九里浜が広がる。上杉謙信の家臣鬼小島氏の系譜に属する鬼島高保は天正一八年(一五九〇)の小田原攻めに参陣したが、病気で一族を連れて一ッ松に隠れ、周辺の開発にあたったという。一ッ松村は単独の村として扱われるが、一ッ松郷二二村の総称でもある。慶長―元和期(一五九六―一六二四)まで一ッ松村として一村一領であったが、のち組分け、字ごとに年貢を取立てたことなどから寛永期(一六二四―四四)以来分郷化が進んだという(木島家文書)。うち江尻・久手・高塚・新地・貝塚・新笈・畑中・中島の八村は同じ領主の相給であったため連合組合を構成し、これを一ッ松郷内南九ヶ村と称したとされる(井桁家文書など)。北部の城之内・新屋敷・驚大・驚北野の四村は北四ヶ村としてまとまっていたという。しかし天保郷帳ではこの総称名および個別村名がいずれも記載されており、その高付の実態は個定的でなかったと考えられる。なお船頭給村・新地村の一部は現一宮町。
文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二千二九九石。正保国絵図でも同高。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では一松組に属し、旗本大井領三〇〇石。また同組にのち一ッ松村内とされる大坪・八崎(初崎)がみえる。元禄郷帳では高二千一六〇石余。元禄一六年(一七〇三)当時は幕府領のほか旗本坪内領・同飯田領と与力給知などがあった(楽只堂年録)。延享元年(一七四四)から文政六年(一八二三)まで一ッ松領八村(南九ヶ村)が旗本神尾領(神保家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では一ッ松村がみえず、入山須村を含め一ッ松村内とされる二一村が記載されている。天保郷帳では一ッ松村として高八三九石余で、別に一ッ松村内とする二二村と一ッ松惣郷持が記載される。寛政五年の前掲村高帳にみえる中里村は天保郷帳になく、天保郷帳に記す南九ヶ村・北四ヶ村・前里村は惣郷持分を含めて寛政五年の村高帳には記載されておらず、また両帳の村高も一致するのは船頭給・溝代・原・兵庫内の四村のみで、ほかは同一村とは思えぬほどの高の相違がある。これらの史料に混乱がないとすれば、両時期の間に再編成が行われたことも考えられるが、公的な村高が判然と把握されにくい、または固定化しにくい実態、つまり浜方であり、村高に塩浜高などが含まれる海付の村であった反映かもしれない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 