新地村(読み)しんちむら

日本歴史地名大系 「新地村」の解説

新地村
しんちむら

[現在地名]牛久町新地

牛久沼と稲荷いなり川に囲まれた舌状地の南端にあり、南東城中じようちゆう村。戦国期に岡見氏一族が東林寺とうりんじ城に拠ったが、東林寺の宝暦二年(一七五二)の鐘銘に「天正年中、治胤興多賀谷修理重経屡苦戦、而後兵勢衰、遂重経所滅、宗系断絶于此矣」とあり、下妻の多賀谷氏によって滅ぼされた。その後領主は由良氏に代わるが、寛永六年(一六二九)牛久藩山口氏領となり(寛政重修諸家譜)、「寛文朱印留」に村名が載る。元禄郷帳の村高は四八石余で、幕末は牛久藩領五五石余、東林寺除地一斗九升余(各村旧高簿)

新地村
しんちむら

[現在地名]竜北町島地しまち 柳江やなぎのえ

北は八間はちけん川を境として下新田しもしんでん集落と接し、南は東鹿島ひがしかしま村・西鹿島村、西は鹿野かの村、東は西野津にしのづ村。古い新地で鹿島開の一部が新地村とよばれたが、村名がいつ名付けられたのか不明。「国志草稿」にも村名を載せない。文政四年(一八二一)頃の野津手永手鑑に「新地村庄屋源助 田畑拾九町三反壱畝弐拾七歩 鹿嶋御開 御物成百拾三石六斗八升九合五勺 内田拾七町八反三畝拾八歩 御物成百七石壱升六合 反六斗 畑壱町四反八畝九歩 御物成六石六斗七升三合五勺 反四斗五升 竈数拾八軒 男女九拾三人 内男四拾九人 女四拾四人 潮塘筋櫨木 中道往還筋 西野津村境より新田村境迄 此間数三丁弐拾壱間 潮塘筋九拾八間 鹿嶋村境より新田村境迄」とある。

新地村
しんじむら

[現在地名]岡山市西大寺新地さいだいじしんち

射越いこし村の南、吉井川左岸沿いに位置し、東は上寺うえでら(現邑久郡邑久町)。長享二年(一四八八)余慶よけい(現邑久町)の涅槃像施主連名書によると、結衆のなかに九郎左衛門をはじめ「新地(村)」の者一七人がいた。元和―寛永期(一六一五―四四)の邑久郡物成秤帳によれば、元和七年の物成高三五三石余。

新地村
あらちむら

[現在地名]一宮町新地・新地甲あらちこう新地丙あらちへい

一宮本郷いちのみやほんごう村の北東、一宮川河口部にある。一ッ松ひとつまつ郷二二村の一つで、元禄郷帳では同郷のうち。寛政五年(一七九三)上総国村高帳に村名がみえ、高三七石余。

新地村
しんちむら

[現在地名]八千代町新地

やま川南岸台地上に位置。太田おおた(現在は水田)を隔てて北は太田村。「親鸞上人門侶交名牒」の三河妙源寺本には弘徳こうとく寺の開基信楽が「下総新堤住」、京都光薗院本には「シモヲサノクニニヰツヽミ」とあり、古くは「にいつつみ」とよばれ、小字新堤しんつつみが残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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