三倉村(読み)みくらむら

日本歴史地名大系 「三倉村」の解説

三倉村
みくらむら

[現在地名]森町三倉

黒田くろだ村の南にある。集落は南流する三倉川と南東流してきた大府おおぶ川の合流東岸にあり、三倉川から大府川沿いに秋葉街道が通る。豊田とよだ郡に属する。村名は屯倉に起因するとする説もある(遠江国風土記伝)。三倉郷一四ヵ村の一。俗に三倉の谷十三村といい、往古は大河内おおこうち郷ともいったという(同書)。「難太平記」によれば、暦応元年(一三三八)正月の北畠顕家の西上のとき、遠江守護今川範国は「遠江国三倉山」に陣取り、街道の所々で合戦をしたとある。田能たのう蔵泉ぞうせん寺所蔵の大般若経は、「豊田郡御倉郷田尾村牛頭天王宮」に奉納するため勧進旦那源光盛法名琢翁道圭の依頼により、永徳四年(一三八四)から至徳四年(一三八七)にかけて、遠江国各地の寺で書写されたものである。


三倉村
みくらむら

[現在地名]若桜町三倉

若桜宿の南西、八東はつとう川の支流三倉川の谷に位置し、谷奥から山越え小畑おばた郷の茂谷もたに村・奥野おくの(現八東町)へ至る道がある。谷の入口から大工だいく村・門前もんぜん村・西谷にしだに村・西河内にしのこうち村の四集落が並び、総称して三倉村といい、本村は西河内村。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、三倉村のうち西河内村は正保(一六四四―四八)以前から内村として成立していたが、正保郷帳には掲載せず元禄郷帳に載せたとある。


三倉村
みくらむら

[現在地名]多古町本三倉もとみくら

出沼いでぬま村の北西栗山くりやま川右岸に位置する。南は谷三倉さくみくら村。中世千田ちだ庄に属した。建武年間(一三三四―三八)とみられる年月日未詳の等空書状(金沢文庫文書)に「今度動乱已後寺中無別子細候、但三倉寺領事少難儀、十三石余已□厳令沙汰候了」とある。動乱とは建武二年千田庄内に発生した千葉氏の内紛とみられ、三倉寺領にも少なからぬ影響があったようだ。


三倉村
みぐらむら

[現在地名]阿南市長生町ながいけちよう

大谷おおたに村の西に位置する。里として常泉寺じようせんじ善入谷ぜんにゆうだに二又谷ふたまただに・中分・円山・天満てんま鳥打とりうち(鳥内)、谷として善入谷・山路やまじ(山地)・道路・花折・二又がある(阿波志)。慶長二年(一五九七)の分限帳に那西なさい郡三倉とみえ、益田彦四郎知行分一一二石余・田川新左衛門知行分一〇〇石・島新八郎知行分一〇〇石。慶長期のものと推定される国絵図には「ミくら」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「みくら村」と記される。


三倉村
みくらむら

[現在地名]久瀬村三倉

揖斐川右岸に立地し、東に揖斐峡がある。豊臣秀吉の蔵入地(代官石田三成)を示す天正一九年(一五九一)四月二七日の近江国・美濃国御蔵入目録(林祝太郎氏所蔵文書)池田いけだ郡「ミくら村」三二石とある。慶長郷帳に「みくら村」とみえ、高四〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平忠良(大垣藩)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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