三原東町(読み)みはらひがしまち

日本歴史地名大系 「三原東町」の解説

三原東町
みはらひがしまち

[現在地名]三原市ひがし町・あさひ町・古浜こはま

三原城の東、米田よねだ山西麓の和久原わくばら(湧原)川の三角州上に、天正一〇―一一年(一五八二―八三)小早川隆景により開かれた城下町。東町ともいい、三原西町と併せて三原町とも称する。南に元禄一三年(一七〇〇)築調の塩浜がある。

米田山麓の旧街道沿いにあった町は、城下町の建設に伴い街道の向きが西に変わったのに対し竪(南北)の方向になったため竪町たてまち(立町、長さ一三九間半)改称。その南の市場町いちばのちよう(五八間)は古くからの市立の町で、その西の中町なかのちよう(八五間)は三角州上に形成された端町であったが、さらに西方浜町はまのちよう(一〇四間四尺一寸)が形成されたため中町と改称。以上の新街道沿いをほん町とし、城下町形成後にできた町をしん(一三七間)と称し、東野ひがしの村までの山麓街道沿いに猟師りようし(四八間余)・地方分(二一間)が形成され、東町の間数は八町三間余とされた(三原志稿)。正保年間(一六四四―四八)の三原城所絵図は、浜町から新町までを三七〇間、竪町を一〇〇間とし、「三原志稿」では三八四間余と一三九間半であるから、近世初期以来、町はあまり拡張されていない。

正保絵図には城の東大手曲輪の東の築出(東外築出)一九二間に町屋が描かれ、「三原志稿」に「海手の船入の家居は船問屋にて、今も問屋株残れり、又上手の町並は水主町なり、前の空地は網打場也、今ハ過半庶民住居す」とあり、正徳二年(一七一二)の東町差出シ帳(「三原市史」所収)にも、この築出を町分としている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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