東野村
ひがしのむら
[現在地名]山科区東野〈井ノ上町・片下リ町・狐藪町・竹田・八反畑町・東山・百拍子町・舞台町・森野町・門口町・八代〉
北は音羽川などを境として西野・音羽、東は大津街道の西側辺で大塚、南は椥辻、西は西野・西野山・栗栖野新田の各村と接する。中央を南北に山科川が貫流、音羽川が北辺を東西に流れ、地勢は平坦。山科盆地の中央部で、盆地が両側から迫る山によってくびれた部分、つまり南北の通行の最も重要な位置にあり、早くから開発されていた。空也寺跡・白河寺跡は当地域に求められている(現東野門口町辺り)。
もとは野村といい、のち東野村・西野村に分離した(京都府地誌)。白雉年中(六五〇―六五四)に開発されて野村と命名され、延長年中(九二三―九三一)に二村に分れたといい、また応仁年間(一四六七―六九)に分れたともいうが(宇治郡各町村沿革調)、それ以後も野村の名は使われている(山科家礼記)。
東野村
とうのむら
[現在地名]大宮町東野
玉川の中流域の狭い谷間に位置し、東は上根本村。太田村(現常陸太田市)より檜沢村(現美和村)に通じる道筋にある。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に次郎宗義(石塚氏)分として「久慈西遠野村」とみえ、天文八年(一五三九)六月一一日の佐竹義元宛行状(同館蔵)には東野のうち一〇貫文の地を和泉掃部左衛門尉に宛行うとある。また文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(同館蔵)には「山形能登東埜」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「東野村」とある。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]三原市糸崎町・寿町・時貞町・広友町・古城通・東町
山中村の南にあり、御調郡に属した。もと大浜村ともいった(芸藩通志)。北の米田山(三五七・二メートル)北側中腹から東の鉢ヶ峰(四二九・七メートル)に続く山地を村域とし、瀬戸内海に面する南麓緩傾斜面に耕地と集落が展開。米田山南麓の時貞遺跡・大将軍遺跡・古城遺跡や、半独立丘陵南斜面の天神山遺跡からは縄文早期の土器・石器などが出土している。当地は古くから「万葉集」にみえる長井浦に比定されている。応安四年(一三七一)の今川了俊の「道ゆきぶり」に「北より南にさし出たる山さきに、松や檜原しげりて、いと面白きおのへあり、いとさきとぞいふ、かづきする蜑の手引の糸崎はしほたれ衣をるにぞ有ける」とある。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]恵那市東野
恵那盆地南東部の平地と、それを囲む山地とからなる。南から東は山が深い。北は大井村と茄子川村(現中津川市)、西は正家村に接する。飯沼川が東から西へ流れ、阿木川に合流する。中央を大井から岩村(現恵那郡岩村町)へ通じる道が通り、岩村城下への道、大井宿への伝馬道として利用された。東部の山裾を岩村から茄子川村で中山道に合する道が通り、岩村藩主の参勤の道であり、遠州秋葉山(現静岡県周智郡春野町)への参詣道でもあり、秋葉道とよばれた。関ヶ原の戦後大給松平氏(岩村藩)領となり、以後幕末まで同藩領。慶長郷帳に東村とあり、高一千二三〇石余。正保郷帳では田方七三一石余・畑方三六五石余、無地高一三二石余。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]狭山町東野
南へ高くなる緩やかな傾斜地に位置し、菅生村(現美原町)の南にある。東除川が東端を北流し、川沿いに中高野街道が通る。元和年間(一六一五―二四)から堺奉行・摂河泉国奉行喜多見勝忠領、のち三男重勝に分知され正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では同氏領で高六六三石、ほかに近江膳所藩領山年貢高一石余。元禄二年(一六八九)喜多見領は上知、宝永元年(一七〇四)武蔵川越藩秋元喬知領と丹南藩領の相給となり、川越藩領は秋元氏の転封に伴い出羽山形藩・上野館林藩領となり幕末に至る。丹南藩領は享保一五年(一七三〇)幕府領となり、元文二年(一七三七)河内国高帳では高六六三石、うち川越藩領五八二石余・幕府領八〇石余。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]粉河町東野
紀ノ川北岸に位置し、村内を大和街道が東西に走り、途中の高野辻で高野街道が東南に分れる。村の北を小田井用水が西へ流れる。北は下丹生谷村、東は池田垣内村(現那賀町)、南は紀ノ川を挟んで安良見村、西は井田村に接する。中世は粉河寺領東村の内で(→粉河庄)、中村とよばれていた。文明一〇年(一四七八)以降のものが残る王子神社名附帳(王子神社文書)では天正一五年(一五八七)頃より井田・中村・池田垣内の三つに分けて表示され始め、慶長四年(一五九九)以降にはそれぞれが村名でよばれるようになり、中村が東野村(東之村)と記されるのは、同帳では寛永一〇年(一六三三)以降である。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]安佐南区安古市町東野
太田川西岸の小村で、古川が太田川の本流であった頃は、西隣の中筋古市村とともに東隣の小田村(現安佐北区)との関係が深かった。慶長年間(一五九六―一六一五)新川が小田村との間を流れるようになり、近世には高宮郡に属しながら沼田郡諸村との関係が深かった。村中はすべて平地で、北は沼田郡中調子村、南は東原村。約一里太田川上流の東岸に向保田、西岸に保田の飛郷がある。田渡の地名があることから、「和名抄」安芸郡田門郷の地に比定する説があるが、中世には北庄の地であった。
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では「北の荘村」に含まれ高一〇〇〇・八二石とあるが、これはのちの中筋古市村を含めた高である。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]松山市東野町・東野一―五丁目・正円寺一丁目・同三丁目
松山平野の東平坦部に位置する農村。隆起する倉谷山(四〇〇メートル)があるほかは低平であり、石手川の南岸に位置する。東は溝辺村・湯山村、西は樽味村、南は畑寺村・正円寺村、北は石手川を隔てて溝辺村・石手村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「東野村 松林有」とある。
古代には温泉郡桑原郷(和名抄)に属したと推察される。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]勝山市北郷町東野
水無山西南麓に位置する。東は志比原村、西は伊知地村、南は森河村。村名は正保郷帳にみえるのが早く、田方八〇八石余・畠方二四八石余であるが、それ以前は伊知地村に含まれていた。正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地となり、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領と幕府直轄地の混在となった。村は両者の支配を受けながらも一村としてのまとまりはあり、天明八年(一七八八)の極証文連判一札(東野区有文書)には、幕府領・勝山藩領の惣百姓が連署して倹約や村締りなどを申合せている。
寛延三年(一七五〇)の一村限指出明細帳(同文書)によると苗代は五月半夏生一〇日以前に取掛かった。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]池田町下東野
池田野新田の東にあり、南は六ノ井村。慶長二年(一五九七)の池田野山年貢割帳(阿子田文書)に村名がみえ、入会の大谷山への立入人馬数三人・七匹、霞間ヶ渓山には二人・二匹となっている。慶長郷帳では高二九九石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。正保郷帳でも幕府領で、田一七一石余・畑一二四石余・山年貢三石余。元禄郷帳でも幕府領だが、明和七年(一七七〇)より大垣藩預所となっている(岐阜県史)。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]江南市東野
上奈良村の北西にあり、村の南境を般若用水、中央を古川が流れる。村内には池があり、巡見街道が通っていた(天保村絵図)。文禄三年(一五九四)坂井伊三郎宛三好吉房黒印状(酒井文書)に「一、百石者尾州東野之内」とみえ、坂井伊三郎の知行地があった。同四年津島神主宛豊臣秀吉朱印状に「尾州丹羽郡東野村内百三拾七石五斗事」とみえ、正保四年(一六四七)まで津島神社領があった(津島神社文書)。
「徇行記」によれば、概高四一八石余で三八九石余は藩士五人の給知。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]余呉町東野
国安村の東、余呉川両岸の平地と東部山地に立地。同川に並行して北国街道が集落内を通る。東境の左禰山(実山・東野山とも)に中世京極家臣東野氏の居城跡と伝える遺構があり、天正一一年(一五八三)の賤ヶ岳の戦で羽柴秀吉方の堀秀政の陣跡も残る。慶長七年(一六〇二)の検地では田三二町五反余・高四五九石余、畑二五町九反余・高一四一石余、屋敷二反余・高二石余(伊香郡志)。寛永石高帳では植村泰朝(のち上総勝浦藩)領。正保・元禄両郷帳でも同藩領。天保八年郷帳では山城淀藩領。八幡神社は神功皇后が三韓出兵に際し当地に行在した故事を伝え、応神天皇を祀る。ほかに白山神社・稲荷神社・金刀比羅宮がある。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]桑名市東野
現桑名市の南部にあり、標高一―マイナス一メートルの低湿地。猟師町および赤須賀新田の西にあり、北および東は桑名城下の外郭堀に面している。天正元亀以前之図(「久波奈名所図会」所収)に東野の地名がみえる。慶長の町割に際して一部は城下に組入れられ、柳原・外堀・萱町などになった。そのため萱町の一部では年貢を当村へ納めている。慶安郷帳(明大刑博蔵)・元禄郷帳とも東野村・堀子村の二ヵ村が独立して記載されているが、のちに堀子村を東野村が吸収しており、天保郷帳では東野村のみ記載している。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]押水町東野
宝達山の西麓、東間村の北西にあり、北部を東間川が西流。古く東間村とともに吾妻野とよばれた(能登志徴)。正保郷帳では西の正友村と合せて高付されており、公務当用記(加藤文書)は同村の枝村とする。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると高一九〇石、免五ツ二歩、新田高二石、小物成は山役六三匁・苦竹役四匁、鳥役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]和良村三庫
鬼谷川と貢間川(入間川)の合流点にあり、東は下野村、西は田平村。正保郷帳に村名があり、郡上藩領で、田方二八九石余・畑方二三〇石余。元禄六年(一六九三)旗本井上正長領となり、正徳二年(一七一二)以後幕府領。文化八年(一八一一)の村明細帳では家数五六・人数二九二、馬二二、高三一三石余、反別田一二町余・畑一四町八反余、井堰九がある。水損場が多く、湿地地名とされる野田のつく地名が多い。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]野上町東野
国木原村の南東、貴志川の支流真国川沿いに集落があり、東は井堰村(現美里町)に接する。天正三年(一五七五)一二月七日の屏坊清算田地売渡状(高岡家文書)に「下地ハしかのゝ庄ヒカシノ村ニこれあり」とみえ、高野山領志賀野庄に含まれた。
東野村
ひがしのむら
揖斐川右岸、岡村の東にある。天正一八年(一五九〇)一月九日の五ヶ村百姓中検地覚(粟野国雄氏所蔵文書)に村名がみえ、大枡量りの三三七俵三斗三升を京枡に改め、一三〇石余の定米となっている。慶長郷帳に村名がみえ、高一九二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)領。正保郷帳でも尾張藩領で、田一六一石余・畑二九石余・紙桑木高七斗余・山年貢一石余。
東野村
ひがしのむら
[現在地名]浅井町東野
北郷村の南東、草野川左岸に位置し北池村などとともに大井井堰を共同利用していた。慶長一二年(一六〇七)と推定される日下部善助沙汰状(中村文書)に村名がみえ、庄屋太兵衛が草野山(草野庄山林)の仕置を命じられており、東主計村などとともに大谷山立会村組に属した(同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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