三反田村(読み)みたんだむら

日本歴史地名大系 「三反田村」の解説

三反田村
みたんだむら

[現在地名]勝田市三反田、那珂湊市美田多みただ

那珂川下流の左岸にあり、西は金上かねあげ村。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高百五十石 此内廿二石六斗八升三合 荒 定物成弐拾壱貫七文 皆納 斎藤太郎衛門み為々」とあり、佐竹義宣の蔵入地であった。慶長七年(一六〇二)の万千代様水戸領知行割(彰考館蔵)に「三反田」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「三多田村」とみえる。「水府志料」によると元禄(一六八八―一七〇四)の頃より三反田と記すようになったとあるが、元禄郷帳には「三多田村」と記され、天保郷帳に「三反田村」とある。「水府志料」によると戸数およそ一七九。


三反田村
さんたんだむら

[現在地名]尼崎市三反田町一―三丁目・東七松町ひがしななつまつちよう二丁目・東難波町ひがしなにわちよう一丁目・名神町めいしんちよう一丁目・尾浜町おはまちよう一丁目・立花町たちばなちよう一―二丁目

大西おおにし村の南に位置し、小字名に神子かみこつぼはまみなみラ・アシハラ・ヒヨ・ヨロシなど。慶長国絵図に生嶋いくしま三段田さんたんだとあり、上之嶋かみのしま村など三村と一括して高一千八一三石(→上之嶋村正保郷帳では「生嶋之内」と肩書して村名がみえ高六〇七石余、ほかに新田高七石余。用水は武庫むこ川水系生嶋井掛り。天明八年(一七八八)の家数三七・人数一七九、牛一三、高札一。氏神栗山くりやま村弁財天、ほかに八幡宮(大正四年栗山生島神社に合祀)。寺は一向宗西本願寺派西要さいよう(現浄土真宗本願寺派)・同西教さいきよう(現同派)、同興正寺派延光えんこう(現真宗興正派)


三反田村
さんだんだむら

[現在地名]川北町三反田

土室つちむろ村の東、手取川下流北岸に立地。地名の由来は三反歩の田があったという説と、古代条里の名称が残ったものという説がある(川北村史)。また「加賀志徴」の引く郷村名義抄は、岩内いわうち村・火釜ひがま村・三ッ口みつくち(現辰口町)の各新村が併さって成立したといい、岩内村や火釜村の枝郷、さらには享和(一八〇一―〇四)の頃まで宮竹みやたけ(現辰口町)の枝郷であったという伝承もある(川北村史)


三反田村
さんたんだむら

[現在地名]旭区三反田町

東は小高おたか新田、西は二又川ふたまたがわ村、南は市野沢いちのざわ村、北は川島かわしま村に接する。もと川島村の内で、後に分村したと伝える(風土記稿)。開発初期の地積が地名として残ったという。

近世初めは幕府直轄領、正徳五年(一七一五)に旗本安藤領。田園簿では田三〇石余、畑二一石余。元禄二年(一六八九)四月の保土ヶ谷宿助郷村高道程覚書(県史九)では、保土ほど宿(現保土ヶ谷区)の定助郷高五一石余を勤めている。宿まで一里二一町。


三反田村
みたんだむら

[現在地名]那珂湊市美田多みただ町、勝田市三反田

近世の三反田村の東の一部は昭和三二年(一九五七)勝田市より那珂湊市に編入、同三四年美田多町と改称した(勝田市の→三反田村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android