三戸城跡(読み)さんのへじようあと

日本歴史地名大系 「三戸城跡」の解説

三戸城跡
さんのへじようあと

[現在地名]三戸町梅内 城ノ下

馬淵まべち川と同川の支流熊原くまはら川の合流地に位置し、現三戸町の市街地の東にあたる。両河川の浸食によって孤立した標高約一三〇メートルの河岸段丘上にあり、低地との比高約九〇メートル。東は馬淵川、西と北は熊原川、南は馬淵川の氾濫原である低湿地に面し、東に名久井なくい(六一五・四メートル)、西と南と北には奥羽山脈の支脈が連なる。糠部ぬかのぶ郡のほぼ中央に位置し、西の鹿角かづの(現秋田県鹿角郡・鹿角市)方面へ通ずる熊原川流域と南の二戸にのへ・岩手(現岩手県)、東の八戸はちのへ方面へ通ずる馬淵川流域を押える要地となっていた。留ヶ崎とめがさき城・三戸高城などともよばれ、その形状から「牛鼻山」と称されたこともある(糠部五郡小史)

戦国時代からの南部氏の拠点で、天正一八年(一五九〇)初代藩主南部信直は豊臣秀吉朱印状(盛岡南部文書)により当城を居城に定めている。築城年代は不明であるが、二四代南部晴政の居城とされる聖寿寺しようじゆじ(現南部町)が天文八年(一五三九)あるいは同一八年に炎上したと伝えられており、その後に築かれたものとみられる。石垣の利用から鉄砲伝来以降の築城と考えられ、信直によって一応の完成をみ、二代藩主利直によって整備されたものであろう。天正一九年の九戸政実の乱平定後、居城は福岡ふくおか(現岩手県二戸市)へ移ったが、翌二〇年の諸城破却書上に「一、同郡三戸(糠部郡之内) 平地 信直留主居甲斐守」とあり、当城は破却されず、そのまま存置された。文禄三年(一五九四)不来方こずかた(後の盛岡城、現岩手県盛岡市)が居城に加えられ、利直は同城に在城することが多くなったが、元和年中(一六一五―二四)の盛岡の水害時には当城が一時居城となり(盛岡砂子)、寛永初年頃にも居城として使われた。寛永一〇年(一六三三)三代藩主重直の代に盛岡城が正式な居城と定められると、当城は事実上廃城となり、三戸古城と称され城代が置かれている。

三戸城跡
みとじようあと

発端丈ほつたんじよう山にあった南北朝期の山城。三津城とも記す。康安元年(一三六一)一一月、鎌倉府に背いた執事畠山国清は伊豆国に逃下り、「三津」城および金山かなやま(現大仁町)修禅寺しゆぜんじ(現修善寺町)の「三ノ城ヲ構テ楯籠」ったという(「太平記」巻三七畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事)。同月二六日鎌倉公方足利基氏は国清の討伐令を発し(「鎌倉公方足利基氏御教書」安保文書など)、翌二年二月八日には将軍足利義詮も国清の討伐を命令している(足利義詮御内書写「後鑑」所収水月古鑑)。同年九月日の中村定行軍忠状写(「続常陸遺文」所収鹿島中村文書)や同年一一月二五日の波多野高通着到状案(雲頂庵文書)によれば、同年三月八日常陸の中村定行、相模の波多野高通が鎌倉公方方として伊豆国に発向し、同月二八日「三戸城」に攻撃を加えた結果、当城は四月一四日に焼落ちている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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