三津村(読み)みつむら

日本歴史地名大系 「三津村」の解説

三津村
みつむら

[現在地名]安芸津町三津

三津湾に南面し、東は豊田郡木谷きだに村、北は仁賀にか(現竹原市)に接する。賀茂郡に属し、海上の藍之あいの島が村域に入る。標高四〇〇―五〇〇メートルの山地が三方を囲み、仁賀村境近くの糸谷いとだに付近に源を発する三津大川が、大峠おおたお川・蚊無かなし川・岩伏いわぶし川・正司畑しようじばた川・隠畑かくればた川などの支流を合わせて南流し、その谷が古くから南北交通路となり、河口に港町が形成された。

村名は正平一三年(一三五八)一〇月日付の小早川実義安堵申状(小早川家文書)に、「当知行安芸国三津村阿曾沼下野守跡間事」とみえる。次いで貞治二年(一三六三)三月一八日の小早川実義自筆譲状(同文書)に「三津村以木谷・三津・風早三ケ村号三津村」とあり、三津村が広狭の両義に用いられていたことがわかる。広義の三津村については永享元年(一四二九)一一月八日の山名常熙施行状(同文書)に「三津三浦地頭職」の語がみえ、小早川盛景がそれを領掌している。三津三浦とは木谷・三津・風早かざはやをさす。狭義の三津村については、文献的には徴証はないが、大炊寮領高屋たかや(現東広島市)の外港であったと推定され、南北朝時代には都宇竹原つうたけはら庄の中心であった下野しもの(現竹原市)から仁賀峠を経てこの地に至る交通路が開発され、同庄の外港として往来が盛んであったと思われる(竹原市史)

三津村
みとむら

[現在地名]沼津市内浦三津うちうらみと

小海こうみ村の南にある。西は海(内浦湾)に面し、南西は長浜ながはま村。古代の田方たがた吉妾きしよう三津みつ(御津)里、中世の三津みと御厨・三津みと庄の遺称地で、集落の南東、発端丈ほつたんじよう山の中腹には中世の三戸みと(三津城)跡がある。「増訂豆州志稿」によると、内浦湾の咽頭部に位置する当地の湊は、廻船二〇艘が入り、古くは田方たがた郡の産物移出港として栄え、伊豆三津の一といわれたという。しかし「海底浅ク且西南風ニ宜シカラザルヲ以テ船舶ノ碇泊ニ便ナラズ」という弱点も併わせもっていた。天文二三年(一五五四)七月一六日、北条氏は今川氏との婚儀の費用を西浦にしうらから駿河清水まで回漕することを当地の松下三郎左衛門・大河四郎五郎ら五名の「西浦御領所船方中」に命じている(「北条家朱印状」長浜大川文書)。松下氏は当地を本拠とし、大河氏も当地在住の地侍と考えられ、北条氏所領役帳によると松下三郎左衛門は御馬廻衆として「豆州西浦」で三三貫文を与えられている。

三津村
みつむら

[現在地名]鳥取市三津・美萩野みはぎの一―三丁目

福井ふくい村の北、湖山こやま池の北西岸に突き出た三津ヵ崎を同村との境界とし、集落はその北側の小湾岸にある。同池北岸のりゆうヵ崎とよばれる岬と池中の津生つぶ島はともに当村内である。集落北側のふたッ山北西麓に若干の平地があるが、農業よりも湖山池での漁業の比重が高い。拝領高一二二石余、本免四ツ八分。正保国絵図正保郷帳では見津村と表記されたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成にあたり三津村と改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。寛保二年(一七四二)の高草郡村々下札帳写(賀露神社文書)によると役米一石三斗八升七合・川役米一石七斗四升五合・藪運上銀四匁五分を課されている。役は享保一一年(一七二六)以降二斗を割当てられた(在方諸事控)。「因幡志」には川役米二石九斗三升と記され、役米が二斗ほど減額されていたと考えられる。同書では古記にみえる家数三〇とある。

三津村
みつむら

[現在地名]網野町字三津

現網野町の最東端に位置し、間人たいざ(現丹後町)に向かう海岸道路沿いにある。東は徳良とくら山を隔てて砂方すなかた(現丹後町間人)に接し、北は日本海に面する。耕地・集落ともに階段上の狭小な土地にあるため、漁業・農業に従事した。

丹後国田数帳に「三津保 六町九段二百十六歩 成吉越中」とみえ、慶長検地郷村帳に高三二七・四六石「三津村」と記される。また「三津村之内掛津村」とあり、のちの掛津かけづ村の地も含んでいた。延宝九年(一六八一)の延高で四六〇石余となったが(天和元年宮津領村高帳)、その後掛津村が分離・高付され、宝永二年(一七〇五)の宮津領辻高帳では二一六石余。

三津村
みつむら

[現在地名]彦根市三津町

安食中あんじきなか村の南西、宇曾うそ川右岸に位置し、対岸は肥田ひだ村。「木間攫」に当村は三つに分れ住むとある。慶長高辻帳に三ッ村とみえ高六四三石余。江戸時代を通じて彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば人数三三八、うち寺社方三。明暦元年(一六五五)彦根藩は宇曾川舟運を開き、中山道から松原まつばら湊へ物資を運んだ。このため問屋六軒を設置したが、そのうちの一軒は当村にあり、「三津の問屋」とよばれた。この問屋が長野ながの(現愛知郡愛知川町)さわ村・高野瀬たかのせ(現犬上郡豊郷町)肥田村などの年貢を運んだ(「愛智郡志」など)。元禄年間(一六八八―一七〇四)竜山開基と伝える黄檗宗法雲ほううん寺、天文一一年(一五四二)愛可の開基で寛永年間(一六二四―四四)改宗したと伝える真宗大谷派往相おうそう寺、浄土真宗本願寺派無量むりよう寺、産土神勝鳥かつとり神社がある。

三津村
みつむら

[現在地名]東脊振村大字三津字上三津かみみつ下三津しもみつてら

権現山の南側山麓一帯に位置する。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に「三津庄五十七丁七反」とある。この三津庄は平安時代には成立していたと考えられ、安楽寺文書にもその名は出るが詳細は不明。

寺ヶ里の山麓に戦場せんじようたに遺跡があり、押型文土器・石鏃・石斧が出土した。

建武二年(一三三五)の東妙・妙法両寺寺領坪付注文写(東妙寺文書)に三津村の名が多くみられ、この地に東妙とうみよう(現三田川町)妙法みようほう(現神埼町)の寺領があったことがわかる。

三津村
みつむら

[現在地名]二見町三津

東は山を隔てて村である。三津は御津の意で、ここに倭姫命が船を留めたことから三津浦と名付けたといわれる(倭姫命世記)。三津古墳群などがある。寛弘七年(一〇一〇)二月五日付の石部千吉請文(御塩殿文書)に「在二見郷廿三条二見里在坪付字山田□□」とあり、この二見里は三津に比定されている。長暦三年(一〇三九)九月二九日付の僧長恵空閑地請文案写(光明寺古文書)の「二見郷字浜大浦」の地を三津とする説もある。

三津村
みつづむら

[現在地名]山崎町三津

揖保いぼ川の中流右岸、同川とその支流伊沢いさわ川との合流点北側に位置する。中世には石作いしつくり庄に含まれていた。年月日未詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(久我家文書)に「ミツヽ」の名主の名がみえ、「上ミツヽ」とも記されている。慶長国絵図に「水須村」とみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳に三津村とみえ、田方二一五石余・畠方三〇石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高四八一石余、田一四町五反余・畑八町九反余(本村分六町五反余・願現寺分二町三反余)、小物成銀二九匁余(茶役一一匁余・山畑役一一匁余・楮役三匁余・栗役二匁余・漆役一分)・桑役(真綿)一一〇匁余、家数四一・人数二三六、馬一六・牛二七。

三津村
みづむら

[現在地名]吉野町大字三津

ほそ(現鹿路トンネル)の東にある山村。「ミ水村」(元和郷帳)、「みす村」(寛永郷帳)と記されたこともある。竜門りゆうもん郷のうち。慶長郷帳には村高二七・六三石、幕府領(代官大久保長安)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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