ドイツの劇作家ブレヒト作、エリーザベト・ハウプトマンElisabeth Hauptmann(1897―1973)協力、クルト・ワイル作曲の三幕戯曲。1928年、ベルリンのシッフバウアーダム劇場の開場にあたり初演された。イギリスのジョン・ゲイの『乞食(こじき)オペラ』(1728)を改作したこの音楽劇は、当時の世界の舞台に大きな影響を与え、日本でも千田是也(これや)らの東京演劇集団により1933年(昭和8)に初演された。第二次世界大戦後は種々の形で繰り返し上演されている。
1900年ごろのロンドンを舞台に、盗賊団の首領マクヒース(通称匕首(あいくち)メッキー)は、乞食の店を開く事業家ピーチャムの娘ポリーと結婚するが、淫売(いんばい)婦ジェニーに裏切られて投獄される。警視総監の娘ルシーの助けで牢(ろう)を脱出したメッキーはふたたび捕らえられ、絞首台に上るが、処刑寸前に女王の使者が現れて恩赦を受け、世襲貴族に列せられる。ジャズの手法を盛り込み、劇中で歌われるいくつもの挑発的なソングのなかでも、とくに「メッキー・メッサーの歌」は広く人々に親しまれている。
ブレヒトは『三文オペラのための註(ちゅう)』において彼の叙事詩的演劇論を打ち立てている。なお、G・W・パプスト監督による映画化(1931)も、トーキー初期のドイツ映画の代表作として知られる。
[八木 浩]
ドイツ映画。1931年製作。1928年にベルリン初演で大ヒットしたベルトルト・ブレヒトの同名戯曲の最初の映画化作品。監督はG・W・パプスト。当初製作に参加したブレヒトは途中でおろされたため裁判に訴え、論争を巻き起こした。映画化に際しては、トーキー映画初期に特有の省略技法によって原作の台詞(せりふ)は大幅に削られ、構成や歌の順番にも変更が加えられている。また、メッキー役ほか何人かの登場人物をフランス人俳優にかえたフランス語版が同時製作された。
メッキー(ルドルフ・フォルスターRudolf Forster(1884―1968))から盗賊団を預かったポリー(カローラ・ネイベルCarola Neher(1900―1942))が、強盗よりも割のいい「合法的搾取」である銀行の経営に乗り出すなど、おもに後半の展開に原作との大きな違いがみられる。
1963年にはウォルフガング・シュタウテWolfgang Staudte(1906―1984)監督、1990年にはメナヘム・ゴーランMenahem Golan(1929―2014)監督により、原作戯曲の展開に近い形で再映画化されたが、シュタウテ版では舞台劇調の演出と娯楽性が強調され、ゴーラン版では暗い画面のなかに痛烈な風刺性が追及されている。また1953年には、ブレヒト作品の基になったジョン・ゲイの『乞食オペラ』がピーター・ブルック監督で映画化され、日本では『三文オペラ』の邦題で公開された。
[濱田尚孝]
『ベルトルト・ブレヒト著、杉山誠訳『三文オペラ』(『世界文学全集別巻2 現代世界戯曲集』再版)(1971・河出書房)』▽『ジークフリート・クラカウアー著、平井正訳『カリガリからヒットラーまで』増補改訂版(1980・せりか書房)』▽『岩淵達治著「ワイル:三文オペラ(1930年録音)とその時代」(CD解説)(1990・ワーナー・パイオニア)』▽『ベルトルト・ブレヒト著、石黒英男訳「こぶ――三文フィルム」「三文裁判――ひとつの社会学的実験」(『ブレヒトの仕事6 ブレヒトの映画・映画論』新装新版初版所収・2007・河出書房新社)』▽『千田是也訳『三文オペラ』(岩波文庫)』▽『hrsg. von Gänter Dahlke und Günter KarlDeutsche Spielfilme von den Anfüngen bis 1933(1993, Henschel Verlag, Berlin)』
ドイツの劇作家ブレヒトが1928年に書いた戯曲。同年8月ベルリンのシッフバウアー劇場で初演されると爆発的な成功を収め,以後世界各地で上演された。1728年にロンドンで上演されたJ.ゲイ作のバラッド・オペラ《乞食オペラ》に素材を借りたブレヒトの台本に,K.ワイルが9人のジャズ・バンドを用い,ジャズの手法を効果的に使った音楽をつけた。《殺人物語歌Moritat》をはじめ,多くの有名な歌を含んでいる。ロンドンの裏町ソホーが舞台で,警視総監ブラウンとも懇意な盗賊団の首領メッキース(メッキー・メッサー)が,乞食の元締めピーチャムの娘を誘惑したことから彼を敵にまわし,密告されて絞首刑にされる寸前に,なんの理由もなしに女王の恩赦をうけてハッピーエンドに終わるという構成は,故意に〈うまくできたお芝居〉をパロディ化したものである。泥棒や乞食や娼婦の世界を扱いながら,ロマンティックな盗賊劇というパターンを避けて彼らに市民的な特徴を与え,観客であるブルジョア連が,こういう小悪党よりはるかに悪質であることを風刺しようとした。亡命中に完成した《三文小説》(1934)では,メッキースは非合法の泥棒行為は割が合わぬことに気づき,合法的でより悪質な強奪を行うために銀行家に変身する。日本では1932年に,映画台本に基づいて日本に舞台を移した《乞食芝居》が,千田是也主演で上演され,第2次大戦後も俳優座,帝劇などさまざまの形態で上演されているが,なかには題名の知名度だけを利用して,原作の内容からまったく外れた上演もある。
執筆者:岩淵 達治
1931年製作のドイツ映画。G.W.パプスト監督作品。ベラ・バラージュ,レオ・ラニア,ラディスラオ・ベイダが脚本を書いた。ドイツでは,トーキーの時代になって《会議は踊る》(1931),《未完成交響楽》(1933)等々,〈音楽映画〉の全盛時代を迎えたが,ナチスが支配する直前のドイツの権力構造の腐敗と偽善にたいする痛烈な風刺と反抗精神に貫かれた異色の音楽映画として高い評価を受けた。しかし,製作中途で手を引いた原作者のブレヒトがワイルとともに内容が改悪されたとして訴訟を起こすという事件もあった。盗賊メッキー・メッサーをルドルフ・フォルスターとアルベール・プレジャンが演じたドイツ語版とフランス語版が同時につくられ,暗いジャズ調の主題曲《メッキー・メッサー》は世界的に大流行したが,映画はハンガリーでは上映を禁止され,日本では検閲のカットによる不完全版が公開された。社会問題に強い関心をもったパプスト監督は,さらに続いて同じ31年に,アルザス地方の炭坑爆発を背景にしてドイツとフランスの炭坑労働者の国境を超えた階級的同志愛を描いた《炭坑》をつくっている。なお,ゲイの《乞食オペラ》は53年イギリスでピーター・ブルック監督で映画化されている(日本公開題名《三文オペラ》)。
執筆者:柏倉 昌美
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…ブレヒトの協力者の一人となり,第2次大戦後も〈ベルリーナー・アンサンブル〉を中心に,数々のブレヒト劇を演出した。ブレヒトの名をも世界的にした《三文オペラ》(ベルリン,1928初演)の演出がとくに有名。【越部 暹】。…
…続編《ポリー》(1729)はウォルポールによって上演を禁止された。ブレヒトの《三文オペラ》(1928)は《乞食オペラ》を脚色した音楽劇である。【喜志 哲雄】。…
…たとえば,有名な怪盗ジャック・シェパードJack Sheppardが1724年11月16日に処刑されたときは,刑場のタイバーン(ロンドン西部)は約2万の見物客で埋まり,ニューゲート監獄から引回しの行列が通る目抜き通りのフリート街,ホーボーン街は,着飾った貴婦人,紳士からぼろぼろの下層民まで,人波で身動きできない混雑だったと伝えられる。物売りは店を出し,罪人,事件についてのパンフレットなどが売られ,J.ゲイ著《三文オペラThe Beggar’s Opera》のモデルの一人となる悪漢ワイルドJonathan Wildなどは見物人が投げつけるように,死んだ犬,猫,ネズミ,腐った卵などをロンドン中から集めて売りつけたようで,それは完全に観客参加の総合ショーと化していた。タイバーンでの処刑は1783年廃止されるが,かわって19世紀半ばまで処刑の行われたニューゲート監獄の門前には群衆が処刑を見に集まった。…
…28年,エイゼンシテイン,プドフキン,グリゴリー・アレクサンドロフ(1903‐83)の3人の連名で,〈トーキーのモンタージュ論〉ともいうべき〈トーキーに関する宣言〉が発表された。そして,それを具体化したソビエト最初の長編トーキーであるニコライ・エック(1902‐59)監督の《人生案内》(1931)がつくられ,フランスではルネ・クレールが《巴里の屋根の下》(1931)で新しいトーキー表現を開拓し,アメリカではルーベン・マムーリアンが《市街》(1931)で音を映画的に処理し,ドイツではG.W.パプストが《三文オペラ》(1931)で新しい音楽映画の道を開いた。 その後,トーキーの技術的進歩・改善がつづき,第2次大戦後の磁気録音テープ,ワイド・スクリーンの副産物としての立体音響の登場など,トーキー映画は数々の発明とともに問題を生んで,映画史を築いていくことになる。…
…アウクスブルクの出身で,同郷人のブレヒトとは高校時代からの知友。ミュンヘンで美術を学び,ブレヒトの協力者として《三文オペラ》(1928),《プンティラ》(1949)など数多くのブレヒト劇の舞台装置を担当した。イリュージョン主義を避け,一種の風刺画的・漫画的表現を通じて舞台に素朴な演劇性を復活させる彼を,ブレヒトは〈現代最高の装置家〉と呼んでいる。…
…なお,1926年には,初期の抒情詩の集大成である《家庭用説教集》も出しているが,このころから,社会機構の理解のために始めたマルクス主義の学習が,初期のアナーキーな立場を捨てさせることになる。 28年の《三文オペラ》の画期的な成功は,オペラの革新と劇における音楽の拮抗的な役割を考えさせることになるが,そういう関心と社会的な主題が結びついたのが一連の教育劇の試みであり,E.ピスカートルの政治演劇からも多くの刺激を得て,新しい世界像を獲得するための〈叙事演劇〉の構想を明確化していく。《三文オペラ》と同じくK.ワイルの作曲によって上演されたオペラ《マハゴニー市の興亡》(1929)の注にまずこの理論の輪郭が示される。…
…G.ガーシュウィンは晩年に黒人の生活をリアルに描いた《ポーギーとベス》(1935)を作ったが,全作品を通じて軽快なリズムやものうげなメロディを特徴とする歌を書いた。ワイルはドイツ生れで,ブレヒトと組んで《三文オペラ》などを作っていたが,ナチスを逃れて渡米し,精神分析を素材にした《闇の中の女》(1941)など,それまでのミュージカルがとり上げなかった辛口の物語を扱う作品を残した。多くのミュージカル作者と違ってワイルは作曲法を本格的に学んでおり,アメリカのミュージカルの知的水準を高めることに著しく貢献した。…
…幅広いレパートリーの中で特に高い評価を受けているのは,C.ゴルドーニ,W.シェークスピア,B.ブレヒトの作品である。特にブレヒトの《三文オペラ》(1955)と《ガリレイの生涯》(1963)の上演では,西ヨーロッパにおいて最も高い水準の舞台を作りあげ,ストレーレルによるブレヒトの演出は世界の脚光を浴びた。またピッコロ版シェークスピアも高い評価を受けており,なかでもストレーレル演出の《あらし》(1979)は画期的な舞台であった。…
※「三文オペラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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