三方原の戦(読み)みかたがはらのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「三方原の戦」の意味・わかりやすい解説

三方原の戦 (みかたがはらのたたかい)

1572年(元亀3)12月22日に遠江三方原(現,浜松市)で武田信玄徳川家康を破った合戦。西上を意図した信玄は10月3日に甲府を出発,10日には青崩(あおくずれ)峠を越えて遠江に入り,一言坂で家康の軍を破った。ついで二俣(ふたまた)城を攻撃し,信玄より先に甲府を出て東三河を制圧していた山県昌景の軍といっしょになって,これを落とした。12月22日秋葉街道から家康の居城浜松城に向かったが,要害堅固な城攻めをさけ,三方原台地に拠って家康軍を誘い出そうとした。家康は織田信長よりの援軍佐久間信盛らを交えて敵の来襲に備えていたが,武田軍が三方原の祝田に向かったのを知り,援軍を加えて約1万1000人で追撃した。これに対し約2万から4万人といわれる武田軍は祝田の坂上で応戦した。結局徳川軍が総くずれとなり,家康もかろうじて浜松城へ逃げこんだ。徳川方の死者は300人とも1000人余ともいわれている。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三方原の戦」の解説

三方原の戦
みかたがはらのたたかい

1572年(元亀3)12月22日,遠江国三方原台地(現,静岡県浜松市)で,武田信玄が徳川家康を破った戦。72年10月,2万5000の軍勢甲斐を出発した信玄は遠江に侵入,只来(ただらい)・二俣など徳川方の支城を落として浜松城に迫った。12月22日,徳川軍は,織田信長の援軍をあわせ1万1000の軍勢で三方原台地の信玄を攻撃するため城を出,三方原で両軍激突。戦闘は武田軍の圧勝に終わったが,信玄は浜松城攻略を行わなかった。この戦は,家康が同盟軍の信長のため信玄を浜松城付近に釘づけにするため,あえて行ったものであった。

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百科事典マイペディア 「三方原の戦」の意味・わかりやすい解説

三方原の戦【みかたがはらのたたかい】

1573年遠江(とおとうみ)の三方原で行われた武田信玄徳川家康との戦い上洛を企てた信玄はまず遠江に侵入,堅固な浜松城を攻めずに家康軍と織田信長の援軍を三方原に誘いだして戦い大勝利をおさめた。家康は浜松城に敗走

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世界大百科事典(旧版)内の三方原の戦の言及

【武田信玄】より

…同年の10月には,信玄みずから大軍を率いて,西上作戦のための出陣をしている。12月には家康の居城である浜松に近づき,三方原で家康・信長連合軍を打ち破り(三方原の戦),その後,進んで三河へ侵攻し,徳川氏の諸城を攻め落とした。しかし翌年4月,三河野田城包囲の陣中で病床に伏し,いったん甲府へ帰陣する途中の信濃駒場で53歳をもって病死する。…

【徳川家康】より

…同年10月信玄と絶って上杉謙信と同盟した。これに対して信玄は北条氏政と結んで再三にわたり家康の所領を攻撃し,72年12月三方原の戦で家康は信玄に大敗した。73年(天正1)信玄の跡を継いだ武田勝頼もしきりに三河・遠江を侵したが,75年長篠の戦では家康・信長連合軍が勝頼の軍に大勝した。…

※「三方原の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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