日本歴史地名大系 「上ノ庄村」の解説 上ノ庄村かみのしようむら 三重県:一志郡三雲村上ノ庄村[現在地名]三雲村上ノ庄堀坂(ほつさか)川の下流左岸に位置し、中(なか)ノ庄(しよう)村の西南にあたる。東は久米(くめ)村。小字名に八(はつ)ヶ坪・西八(にしはつ)ヶ坪・東八ヶ坪の古代条里坪付に由来する地名や蔵垣内(くらがいと)・蔵垣内前・堂垣内・藤内(とな)垣内・西沖矢(にしおきや)の垣内・姥(うば)垣内の中世の開発にかかわる垣内地名がある。また大蓮寺(だいれんじ)・南大蓮寺・北大蓮寺という平安時代以降の寺院に由来する地名がある。大蓮寺跡のほか文珠(もんじゆ)遺跡・宮の腰(みやのこし)遺跡・辻世古中(つじせこなか)遺跡など弥生時代以降の遺跡がある。中世には醍醐寺領の曾禰(そね)庄に含まれた。貞和三年(一三四七)九月四日の曾禰庄三ケ郷沙汰人百姓等請文(醍醐寺文書)に「下郷寂蓮、上郷円勝、久米郷右馬允」とみえ、上郷の円勝が沙汰人百姓の一人として年貢を請負っている。天正一一年(一五八三)八月当地を支配していた阿坂(あざか)城(現松阪市)城主含忍斎の息子大宮大之丞が飯高(いいたか)郡船江(ふなえ)(同市)の領主本田左京亮方と合戦をし、当方へは肥留(ひる)の佐藤又次郎が加勢している(勢陽雑記)。 上ノ庄村かみのしようむら 奈良県:生駒郡平群町上ノ庄村[現在地名]平群町大字上庄(かみしよ)竜田(たつた)川東岸、椣原(ひではら)村南方に所在。東方丘陵の小字城山(しろやま)には曾歩々々氏(→兼殿庄 →平野殿庄)の城と伝える上庄南(かみのしようみなみ)城跡があり、その北の小字宇山(うやま)に小規模な上庄北城跡がある。慶長郷帳には「上庄」とあり、村高二〇一・九二石。慶長六年(一六〇一)以降竜田藩(片桐且元)領、明暦元年(一六五五)以降幕府領。「平群町史」所収の延宝七年(一六七九)の大和国平群郡上庄村検地帳によれば、段別一三町一段八畝一四歩(古検一五町六畝二五歩、新検減一町八段八畝一一歩)、分米一九八・五〇七石、検地奉行郡山藩士吉岡新左衛門。 上ノ庄村かみのしようむら 奈良県:桜井市三輪・纏向地区上ノ庄村[現在地名]桜井市大字上之庄(うえのしよう)寺川北部、松(まつ)ノ本(もと)村西方に位置する。典型的な環濠集落。村名は大仏供(だいぶく)上ノ庄の略で、興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)に「大仏供上庄十一町、同中庄九町五段、同下庄十四町二段半廿四歩」とみえる。中ノ庄は現大字東新堂(ひがししんどう)、下ノ庄は現大字大福(だいふく)に相当する。 上ノ庄村かみのしようむら 奈良県:天理市二階堂地区上ノ庄村[現在地名]天理市二階堂上之庄(にかいどうかみのしよう)町中(なか)街道(下ツ道)東部、荒蒔(あらまき)村西方に所在。中世には菅田上(すがたかみ)庄の一部であったか。慶長郷帳には「上庄村」とあり、村高五四一・四三石、山口勘兵衛組の所領。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by