日本歴史地名大系 「上ノ村」の解説 上ノ村かみのむら 香川県:高松市旧香川郡地区上ノ村[現在地名]高松市上之町(かみのちよう)一―三丁目・花(はな)ノ宮町(みやちよう)一―三丁目・楠上町(くすがみちよう)一―二丁目・桜町(さくらまち)一―二丁目など中ノ村の南にあり、紫雲(しうん)山(二〇〇メートル)の東、御坊(ごぼう)川流域の平野の村。南北に仏生山(ぶつしようざん)街道が通る。戦国期には香西氏の武将唐人弾正が上村城に拠った。藤の木(ふじのき)神社の南に城跡(しろあと)という地名が残る。唐人氏は香西氏の一族であるが弾正の時に唐人を名乗ったという。天正一三年(一五八五)、羽柴秀吉の臣仙石秀久に喜岡(きおか)城が攻められた際、弾正は片山(かたやま)城主片山志摩とともに救援、城は落ち弾正も討死した。子孫は生駒氏に仕えた。藤塚(ふじづか)町との境に館のあった宮脇越中守も香西氏の家臣である。 上ノ村かみのむら 兵庫県:宍粟郡山崎町上ノ村[現在地名]山崎町上ノ揖保(いぽ)川の支流伊沢(いさわ)川の上流域に位置し、南は中野(なかの)村。村名は都多(つた)谷の最奥部にあることに由来するという。上野村とも記される(旧高旧領取調帳など)。慶長国絵図に「阿波田村」がみえ、当地内の小字名の小和田(おわた)に類似していることから当村の別称とも考えられる。初め姫路藩領、元和元年(一六一五)山崎藩領(「寛文朱印留」など)、延宝七年(一六七九)幕府領(「本多家譜」東京大学史料編纂所蔵など)、明和六年(一七六九)尼崎藩領、文政一一年(一八二八)幕府領となり幕末に至る(岡本家文書・旧高旧領取調帳など)。 上ノ村かみのむら 奈良県:五條市上ノ村[現在地名]五條市上之(かみの)町寿命(じゆみよう)川上流、水沢(みなれ)谷東方に立地。慶長郷帳・元和郷帳には「上村」、寛永郷帳・元禄郷帳には「上ノ村」、天保郷帳には「上之村」とみえる。慶長郷帳の村高二三四・七〇七石。領主は旗本青山石見。慶長二〇年(一六一五)青山石見が大坂夏の陣に際し、豊臣秀頼方に内通したことが現れ、切腹し断絶。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by