江戸初期の儒学者で、日本の陽明学の祖。名は原(げん)、字(あざな)は惟命(これなが)。通称は与右衛門(よえもん)。嘿軒(もくけん)または顧軒(こけん)と号す。近江(おうみ)国高島郡小川村(滋賀県高島市安曇川(あどがわ)町上小川)に生まれる。9歳で、伯耆(ほうき)国米子(よなご)(鳥取県)の加藤侯に仕える祖父吉長の養子となる。主の転封に従って伊予国大洲(おおず)(愛媛県)に移る。15歳で祖父が没したあとは禄(ろく)100石を受けた。1634年(寛永11)27歳のときに、郷里の母への孝養のため致仕を願い出るが許されず、脱藩して郷里小川村に帰り、母に仕えつつ学問と教育に励む。時人、彼を藤樹先生、また近江聖人とよんだ。
藤樹の思想の展開は3期に分かれる。前期は27歳の大洲脱藩まで。11歳で『大学』の「身ヲ修ムルヲ以(もっ)テ本ト為(な)ス」の語に感激して学に志し、やがて『四書大全』を得て朱子学を奉ずる。学の核心は博学洽聞(こうぶん)にではなく、心と行為の正しさを得るにあるとの徳行重視の見地にたった。しかし、やがてあらゆる場面の行為の妥当性を厳しく求める朱子学の形式主義に疑いを抱くに至る。
中期は31歳から37歳まで(27歳から31歳までは過渡期)。彼は帰郷すると、朱子学の重んずる四書ではなく五経に拠(よ)って思索を重ね、33歳のときには『王竜渓語録』を読んで陽明学に接し、朱子学から離脱して独自の思想を形成する。同年『翁問答(おきなもんどう)』を著す。中期では大乙(たいいつ)神信仰の開始と心学の提唱とがとくに注目される。彼は、万物を生みかつ主宰する神秘的超越者大乙神の実在を確信し、大乙神の尊崇と祭祀(さいし)とを自ら実践し、また人に説いた。朱子学的合理的神観念とは異なる神観念を形成したのである。彼は、それに伴って、大乙神の要請であるとして心学を説いた。人は内面=心に優れた道徳的能力(明徳)を備える、この心の明徳を明らかにすること(明明徳)こそが修身の中心課題である、人がこの明明徳を成就(じょうじゅ)するときあらゆる場面の行為の妥当性が保証される、と説いた。内面=心をあくまで重視しつつ外的行為の妥当性を求める藤樹心学の成立である。
後期は37歳以後である。彼は37歳で『陽明全集』を読んで陽明学に共鳴し、これを取り入れつつ独自の思想を形成した。中期の思想が、内面の正しさとともに行為の妥当性を求める、外に向けての実践的・動的傾向をもっていたのに比し、この時期では、外的行為の妥当性をあまり重視せず、内面=心の正しさによりもたらされる心の平安をこそ重視する静的傾向が顕著である。
[玉懸博之 2016年6月20日]
『山井湧・山下龍二・加地伸行校注『日本思想大系 29 中江藤樹』(1974・岩波書店)』▽『『日本教育思想大系 中江藤樹』複製、全2冊(1979・日本図書センター)』▽『山住正己著『朝日評伝選 17 中江藤樹』(1977・朝日新聞社)』
江戸初期の儒学者。日本における陽明学派の始祖とされる。名は原,字は惟命(これなが),通称は与右衛門。藤樹は号,別号は嘿軒(もくけん),顧軒。祖父吉長は伯耆国米子藩主加藤貞泰の家臣。父吉次は近江国高島郡小川村で農業に従い,北川氏を妻とし1男1女を生む。藤樹はその長男。9歳で祖父に引き取られ,翌年加藤家の転封にともない,伊予国大洲に移住した。17歳で《四書大全》を読み,朱子学に傾倒していく。19歳のとき郡奉行として在職。27歳のとき老母を養うことを理由に,藩の許しを待たずに致仕し,近江に帰る。酒を売り米を貸して生計を立てたという。《礼記(らいき)》の教えどおりに30歳で結婚したことからもわかるように,儒教の礼法の順守を志していたが,1640年(寛永17)33歳のとき,大きな転機を迎える。それは,(1)《孝経》に深い意味を見いだしたこと,(2)太乙神(たいいつしん)を祭りはじめたこと,(3)《翁問答》を著したこと,(4)《王竜渓語録》を入手し陽明学を知ったこと,などだったという。34歳のとき伊勢の皇太神宮に参拝し,また儒教の礼法を固守する弊害を認めるようになる。44年(正保1)37歳で《陽明全書》を読み,陽明学にしだいに没入していった。また備前国岡山藩主池田光政の尊信を受け,彼の遺児3人はつぎつぎに召し抱えられた。藤樹は儒学,医学を講じて多くの門人を養成したが,熊沢伯継(蕃山)と淵岡山は,その陽明学風を継承した双璧といわれる。徳行をもって聞こえ,数々の逸話が伝えられるが,死後とくに名声が高まり,近江聖人と呼ばれるようになった。著書に《翁問答》をはじめ,《論語郷党啓蒙翼伝》(1639),《孝経啓蒙》(1642),また《大学考》《大学解》《中庸解》《中庸続解》や《鑑草》(1647)など儒学関係のもののほか,《捷径医筌》(1638),《神方奇術》(1644)など漢方医書があり,《藤樹先生全集》増補再刊版5冊(1940)に著作が網羅されている。
執筆者:三宅 正彦
藤樹は江戸時代中期には,名利を避け,清貧の中で求道生活を続けた高徳の人として広くその名を知られた。藤樹の徳化は近隣の農民にも及び,その感化力に驚いた熊沢蕃山が入門を請うた話,老いた母の喜びをわが喜びとした逸話は,近代になってからも孝の道徳をあらわす典型として,国定教科書に収められ,また内村鑑三は,日本史上最も理想的な教育者として,《代表的日本人》の中で藤樹の求道生活を紹介した。
執筆者:大隅 和雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1608.3.7~48.8.25
江戸前期の儒学者。日本陽明学の祖。父は吉次。名は原,字は惟命(これなが),通称は与右衛門,号は嘿軒(もくけん)。自宅の藤の木にちなみ藤樹先生とよばれた。近江国高島郡小川村生れ。9歳で祖父に引き取られ,伯耆国米子,伊予国大洲(おおず)と移り,祖父の死後大洲藩に出仕。京都から来た禅僧の「論語」講義聴講をきっかけに,「四書大全」で朱子学を独学。27歳で近江に残る母への孝養を理由に脱藩,帰郷して学問に専念した。塾(藤樹書院)を開いて,道徳の形式よりも精神が重要であるとし,時・処・位の具体的場面に適した行動をとることを説いた。37歳のとき王陽明の全書を得てその思想に傾倒。近江聖人として崇敬され,熊沢蕃山(ばんざん)・淵岡山(ふちこうざん)らの門人を出した。著書「翁問答」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…湖岸に沿って国道161号線が走り,JR湖西線も開通したため,住宅地化や工業化が進みつつある。中江藤樹の生地で書院跡は史跡に指定されており,記念館もある。【松原 宏】。…
…藩学は大洲藩の止善書院明倫堂(1747),宇和島藩の内徳館(1748,のち敷教館,明倫館,明誠館),新谷藩の求道軒(1783),吉田藩の時観堂(1794),小松藩の培達校(1802,のち養生館),松山藩の興徳館(1805,のち明教館),今治藩の講書場(1805,のち克明館),西条藩の撰善堂(1805)がある。学者としては,日本陽明学の祖中江藤樹は大洲藩に仕えて大きな影響を残し,その学派に川田雄琴がある。宇和島藩の内徳館教授安藤陽州は京都古義堂の出身であり,寛政期に岡研水が朱子学を導入した。…
…中江藤樹の著書。1641年(寛永18)に成立。…
… 近世に入って,家の制度が確立し,儒教が教学の中心に据えられると,孝は道徳の根本として取り上げられるようになった。母への孝行に徹した中江藤樹は,孝を基本とする独特の教えを説いたが,孝の強調の中で,浅井了意の《大倭二十四孝(やまとにじゆうしこう)》をはじめ,孝を中心とする数々の教訓本があらわれた。幕府や諸藩は孝子の表彰を盛んに行い,教化に努めたが,他方で主君に対する忠が強調されるようになると,忠は孝に優先すると説かれることになった。…
… 江戸期の思想史のその後の歩みは,こうした徳の概念を問題の必要に応じて解読し直し定義し直すことにあった。中江藤樹は《孝経》に注目し徳の要(かなめ)は孝にあるとした。伊藤仁斎は〈徳は仁義礼智の総名〉(《語孟字義》)とした。…
※「中江藤樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新