小河庄
おがわのしよう
現大字船越の小川地区にあった安楽寺(太宰府天満宮)領の庄園。小河別符ともいった。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に「小河庄凶徒押領」とみえる。庄域は不詳だが、戦国期の史料に「竹野郡内小河庄七拾町」とある(永正六年一二月一五日「右馬頭親賢施行状」小河文書/福岡県史資料一〇)。安楽寺領化の時期やその経緯は不明だが、在地領主小河(小川)氏の寄進によるものか。小川天満宮は当庄の鎮守社として勧請されたものとみられ、また小川氏の先祖は菅相公補佐三臣の一人という伝承もある(寛延記)。
小河庄
おがわのしよう
天養二年(一一四五)七月九日の鳥羽院庁下文(吉田れん氏蔵)に最勝寺領「小川御庄」とみえるのが早い。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月条の信濃国年貢未済庄々注文に「上西門院御領小河庄」と注している。戸隠神社(現戸隠村)旧蔵の永仁七年(一二九九)修補の大般若経の奥書に「於小河庄薗寺住房書了」「於信州小河庄薗日輪寺住房書了」「小市郷薗城寺幸松殿令書写之」と記していて、土尻川流域に所在した荘園であると考えられる。初め後白河院の姉統子内親王領として成立し、内親王領から後白河法皇領となり、後に法皇の皇女宣陽門院領になり、建長三年(一二五一)鷹司院領となり更に後深草院領になった。
小河庄
おがわのしよう
矢部川左岸、現小川から南方の太神のうち下小川にかけての一帯にあったとみられる庄園。宇佐宮の「本御庄十八箇所」の一所として数えられた。「宇佐大鏡」によれば田数は本庄二〇町で一円不輸、上下の松延名は三〇町で国半不輸・宮加地子三〇石、三深八町、用作一町六反とある。同書に引用された治安三年(一〇二三)七月一三日付筑後国符写には「山門郡小河庄十四町 御深庄六町」とあり、国役を免除されていた。同書に引かれる康和年中(一〇九九―一一〇四)の小家庄(現田主丸町)の沙汰にかかわる庄司大蔵季遠の陳状には「本庄十二丁ハ大菩薩御位田也」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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