日本歴史地名大系 「下寺村」の解説 下寺村しもでらむら 長崎県:北松浦郡田平町下寺村[現在地名]田平町下寺免(しもでらめん)・以善免(いよしめん)・深月免(ふかつきめん)・田代免(たしろめん)・古梶免(ふるかじめん)、江迎(えむかえ)町末橘免(すえたちばなめん)小手田(こてだ)村の南に位置し、釜田(かまた)川が流れる。西部は平戸瀬戸に臨み、青砂(あおさ)崎が突き出る。南に蛇焼(へびやき)山、東に吹上(ふきあげ)山があり、吹上峠越は平戸往還筋となっている。江戸時代は田平村のうちで、正保国絵図に「下寺村」とあり、高一三六石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では「田平下寺村」内に下寺免・伊吉(いよし)免・深月免・末橘免・古梶免、また畑方帳抜書にはほかに籠手田(こてだ)免・山内(やまのうち)免・大窪(おおくぼ)免・野田(のだ)免が記される。 下寺村しもでらむら 滋賀県:草津市下寺村[現在地名]草津市下寺町志那中(しななか)村の北、片岡(かたおか)村の西に位置し、西は琵琶湖に臨む。近世初頭は上寺村を含んだが、慶安(一六四八―五二)の頃上寺村が独立したとされる。中世は一帯に法会(ほうえ)図が成立していた。文和三年(一三五四)六月二三日の足利義詮御教書(前田家文書)によれば「法会図五郷」の散在名田を比叡山成就房の法印祐賀が領掌するよう命じている。戦国期には上・下に分れ(弘治二年四月二〇日「本間貞政売券写」長束文書)、年未詳の下法会検地高惣目録(芦浦観音寺文書)では片岡分七八一石余・下物(おろしも)分六一五石余・下寺分三三八石余・津田江(つだえ)分二三八石余・蘆浦(あしうら)分一千三一五石余を記す。 下寺村しもてらむら 長野県:伊那市下寺村[現在地名]伊那市大字手良沢岡(てらさわおか) 下手良棚沢(たなざわ)川の中流より北部、浅間(せんげん)山(九〇四・八メートル)の西山麓にある村。古代手良郷の一部と考えられる。諏訪神社の伊那廻り湛(たたえ)神事の神使の廻り村で、文明二年(一四七〇)の「伊那廻湛日記」(矢島文書)に「下寺」とみえる。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳には箕輪領の項に、村位は中、村高は「八百拾三石壱斗六升五合五勺 下寺」とあり、「長野県町村誌」によれば「慶長六年、下手良・八手に分派、其本支の如き不詳」とある。箕輪(みのわ)領の一部として私領となったり幕府領となったりして複雑な支配を受けたが、箕輪領のうち旗本領となった下寺村を含む八ヵ村は「一手御天料」編入の運動を起こし、たまたま慶応四年(一八六八)三月二日、岩倉総督の下諏訪泊りを機に嘆願書を提出したが果せなかった(上伊那誌)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by