日本歴史地名大系 「福島村」の解説
福島村
ふくしまむら
近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した村。近世は東在の一村で、現福島町の北部から東部一帯を占めていた。枝郷も含めると、東は
シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「福嶋 川有 松前より是迄四里 家百二十軒程 矢越の崎 茶屋峠」とみえる。また「しらふ村より半里 をりかんない村迄」として「家数四、五十軒 船付の川有」、「をりかんない村より七里 しりうち村迄」として「此間山坂難所 家数三十軒計」とも記される。元禄郷帳に福島村、享保十二年所附に「福嶋村 松前大泊り川より四里廿四丁三十間」と記され、「同万九郎淵、同高松、坂の下、茶屋峠 此辺ならの木沢迄一里」、「一ノ渡り」、「わらひ野 此辺つなはへ沢迄一里」「綱はへ野 此辺くりの木野迄一里」、湯の坂、湯の尻へと続く。
福島村
ふくしまむら
福島の全域を村域とする。北部の原免に七郎氏広(日本武尊の孫という)を祭神として祀るとされる
江戸時代は平戸藩領志佐筋九ヵ村のうちで、
福島村
ふくしまむら
現木曾福島町の中心部にあたり、木曾川に沿う二、三段の狭い段丘面上に町並を形成している。木曾川右岸、城山山下の低地に、木曾代官山村氏の屋敷と家臣団の屋敷のある
福島村
ふくしまむら
北境を
福島村
ふくしまむら
岡山城下への入口にあたる旭川河口右岸にあり、川向いは
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくじまむら
- 長野県:須坂市
- 福島村
現須坂市西南部。東は
南方からくる北国脇往還松代通は、集落(字屋敷)を南北に通り、北端で堤外に出て、千曲川
福島村
ふくじまむら
- 新潟県:長岡市
- 福島村
長岡町の北方東寄り約一里隔てる平野部にある。村は西から東に
福島村
ふくしまむら
- 兵庫県:三田市
- 福島村
福島村
ふくしまむら
- 福岡県:八女市
- 福島村
福島町の北、
福島村
ふくしまむら
- 福岡県:筑後市
- 福島村
福島村
ふくしまむら
- 大分県:中津市
- 福島村
福島村
ふくしまむら
利根川右岸沿いにあり(一部は左岸)、対岸は
福島村
ふくしまむら
- 高知県:土佐市
- 福島村
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくじまむら
- 三重県:桑名市
- 福島村
現桑名市街地の北部にあり、
福島村
ふくじまむら
福島村
ふくじまむら
- 長野県:諏訪市
- 福島村
諏訪湖の南東の平坦地のほぼ中央にあり、北東に
諏訪御符礼之古書の文明一九年(一四八七)の条に、「七月廿七日
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくじまむら
北流する
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
飛騨川左岸の河岸段丘上に位置する。北は
福島村
ふくじまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
戦国時代には
福島村
ふくじまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくじまむら
福島村
ふくしまむら
正保郷帳によれば田方九五二石余・畠方一二〇石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄八年(一六九五)から丸岡藩領。
福島村
ふくじまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
手取川河口南方に位置する。集落はもと低湿地にあったがたびたび水害を受け、島のように残っていた現在地に移ったと伝える。その際今後の幸福を祈り福島と名付けたという(根上町史)。天正三年(一五七五)八月、織田信長軍が越前を攻略、次いで加賀へ侵攻して
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくじまむら
福島村
ふくじまむら
福島村
ふくじまむら
- 愛知県:稲沢市
- 福島村
東は
福島村
ふくじまむら
- 長野県:伊那市
- 福島村
天竜川の左岸、北は
文明二年(一四七〇)の矢島文書の「伊那廻湛日記」に「寺之福嶋 六百三十文」とあるのが初見である。古くは寺(手良)の郷に所属し、天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳では
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
福島村
ふくしまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報