下荒井村(読み)しもあらいむら

日本歴史地名大系 「下荒井村」の解説

下荒井村
しもあらいむら

[現在地名]北会津村下荒井

阿賀川とみや川のほぼ中間にあり、銀山ぎんざん街道に沿う。東はもと当村端村の蟹川かにかわ村、北は中里なかざと村。北に小名宝寿ほうじゆ北西に端村平太屋敷へいたやしき(平田屋敷)がある。康安二年(一三六二)恵倫えりん(もと宝寿寺、現会津若松市)鐘銘に「奥州会津郡下荒居村 康寧山宝寿禅寺洪鐘壱口」とあり、左金吾盛久が檀那となって村内宝寿寺に寄進している(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千三九八石余で、この高は蟹川村の高を含んでいる。万治年間(一六五八―六一)蟹川村を分村。寛文五年(一六六五)の「万改帳大沼郡中荒井組」では本田高九九〇石余・新田高二一石余、免五ツ五分一厘余、本村の家数九一・竈一一八、男二七三・女二二三、馬三二、平田屋敷の家数四・竈四、男一九・女一四、馬四。


下荒井村
しもあらいむら

[現在地名]阿南市宝田町たからだちよう

富岡とみおか町・石塚いしづか村の西に位置する。村内を桑野くわの川が東流し、東端で南流してきたおか川を合する。里として井関いせき・川瀬崎・北荒井・こおり・友竹・原・大門・松内・竹宗・市場いちば・太郎丸・徳永がある(阿波志)。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「下あらい村」とみえ、那西なさい郡に属する。正保国絵図では高四三六石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方四三五石余・畠方一石余。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男六一・女七七・社人二・僧一。


下荒井村
しもあらいむら

[現在地名]勝山市遅羽おそわ町下荒井

禅師王子ぜぜおうじ山の東端の裾にあって九頭竜くずりゆう川左岸に接し、東ははこの渡によって勝山城下に至り、南は大野城下に至る勝山街道の要地。地名は慶長三年(一五九八)の「永代相渡シ申山之事」(鳥山家文書)にみえる。慶長一一年頃の越前国絵図では「ほうき下荒井共」と、ほうき村と合わせて記されている。正保郷帳には「下荒井村」と一村で記載され、六五・五八石(田方四一石余・畠方二三石余)であった。ところが元禄七年(一六九四)の割付状では一三七・八八九石となり、宝永二年(一七〇五)まで続いた。


下荒井村
しもあらいむら

[現在地名]福井市下荒井町

じよう山から北東に延びる山塊の東麓にあり、北陸街道に沿う。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では荒井之郷(高一八一八・二四石)に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、同帳によると田方四〇〇石・畠方二三一石余。福井藩領。往還茶店があり(越前国名蹟考)、街道東側に八幡神社(祭神応神天皇、旧村社)が鎮座する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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