下見村(読み)したみむら

日本歴史地名大系 「下見村」の解説

下見村
したみむら

[現在地名]東広島市西条さいじよう町下見

御園宇みそのう村の西に位置する。東から南に比高一〇〇メートル前後のかがみ山などがある。中央を番蔵ばんぞう川が東流し、東端で黒瀬くろせ川に合流する。

大永三年(一五二三)八月一〇日付安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)に「した見村 百貫 野間吉浦彦太良知行」とあり、吉浦よしうら(現呉市)の野間氏の知行地であった。野間一族は弘治元年(一五五五)毛利氏に滅ぼされ、翌年木村彦左衛門が毛利隆元から当村鴻巣こうのすに一二貫文の地を給地として宛行われ(「閥閲録」所収木村彦左衛門家文書)、当地は毛利氏の支配下に入った。弘治三年一一月一二日付万福寺周定宛毛利氏奉行人連署書状(「閥閲録」所収成君寺文書)には「西条したみ鴻巣両村之内、徳厳庵・金蔵寺・清隠庵・成福寺・一慶庵、右之小庵五ケ所弐貫百目之事、為寺領百姓等立除、作職地頭納所共田畠山野不残反歩、被成御扶助候、全知行肝要之由可申旨候」とあり、下見・鴻巣が別村であり、両村内に万福寺支配下の徳厳庵以下五寺庵があったことなどが知られる。


下見村
しもみむら

[現在地名]八束村下見

蒜山ひるぜん盆地の東部で東流から南流へ大きく迂回する旭川右岸に位置し、北と東の対岸はそれぞれ上長田かみながた村と下長田村、西は西茅部にしかやべ(現川上村)黒杭くろくい(現湯原町)、南は小童谷ひじや(現同上)。集落は旭川沿いに形成された帯状の氾濫原や山麓に立地し、北側に美田野みだの中津加茂なかつかも、東側に定広さだひろ宝大寺ほうだいじ岡中曾おかなかぞ小吹こぶけ大下見おおじもみ、枝谷には山城やましろがある。正保郷帳によれば田高二四〇石余・畑高六八石余、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高一五八石余・開高一二二石余、元禄初頭の家数五五・人数一六七(作陽誌)


下見村
したみむら

[現在地名]筑紫野市下見・美咲みさき

岡田おかだ村の南東、南東流する宝満ほうまん川左岸にある。東は夜須やす朝日あさひ(現夜須町)北東から南西へ長崎街道が通る。かつては侍嶋さむらいじまといい、筑紫ちくし村のうちであったという(続風土記拾遺)。永正一四年(一五一七)三月二六日の筑紫百宝子丸坪付注文(筑紫古文書/嘉穂地方史古代中世篇)には、筑紫氏の三笠みかさ郡内の所領の一つとして「志田美」三〇町がみえ、同所に続いて「(志田美)侍嶋」三町が記される。


下見村
しもみむら

[現在地名]落合町下見

舞高まいたか村の対岸、旭川東岸にあり、北は法界寺ほうかいじ村、東方奥山手おくやまて(現久米郡旭町)との境は山地となっている。「作陽誌」には備前より当地を経て大山往来に通じ、久世くせ(現久世町)湯原ゆばら(現湯原町)などに至る旭川沿いの道が記される。正保郷帳によると田高四石余・畑高五八石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では村位は下、改出高一五石余・開高七石余。


下見村
しもみむら

[現在地名]東伯町三本杉さんぼんすぎ

三本杉村の北東に位置する。同村の支村で、明治三年(一八七〇)領内限り一村扱いになったというが(藩史)、すでに「伯耆民談記」に村名がみえ、幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一一一石余、竈数二六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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