与板村(読み)よいたむら

日本歴史地名大系 「与板村」の解説

与板村
よいたむら

[現在地名]与板町与板

現与板町の中心に位置し、くろ川と旧黒川両川の東を信濃川が各々北流し、西方三島みしま丘陵が起伏して南北に延びる。信濃・黒両川の合流点の西方山麓と両河川の沖積地に街並を形成する。南東は蔦都つたいち新田なか村、西は阿弥陀瀬あみだせ(現和島村)山沢やまざわ村、北は本与板もとよいた村。近世には与板藩城下町として町方の与板町と村方の与板村(現字堤下つつみした柳之町やなぎのまちなど)に分れていた。天文年間(一五三二―五五)に直江景綱が本与板城に居城したと伝えられ、御館の乱に栃尾城の本庄秀綱、三条城の神余親綱が与板、芹川せりかわ(現長岡市)を攻撃した際の天正六年(一五七八)五月六日の上杉景勝書状(天寧寺文書)には赤田あかだ(現刈羽郡刈羽村)の斎藤朝信に対し「与板」に加勢を求めている。

元和六年(一六二〇)長岡藩領。寛永一一年(一六三四)与板藩領。元禄一五年(一七〇二)牧野氏の小諸こもろ(現長野県小諸市)移封に伴い幕府領となり、宝永二年(一七〇五)与板藩領に復し幕末に至る。元和六年の長岡藩知行目録に高八四九石三斗余。「関守(与板町郷土資料館蔵)によれば、享和三年(一八〇三)の村高は一千二六八石九斗余、町方のみの家数六八二。旧高旧領取調帳では与板村二八石六斗余と一千五二六石一斗余に別記される。この間の増高は黒川左岸の古川埋立や右岸の萱野などをはじめとした村周辺部の新田畑開発が進展したことによると考えられる。

藩主牧野・井伊両氏が小禄の大名であったので、城郭も館程度の小規模なもので城下町の形態も整わず、町はむしろ在郷町的な性格が強く市場町・河岸場町として賑った。


与板村
よいたむら

[現在地名]柏崎市与板

東は鯖石さばいし川を挟んで善根ぜごん村、西は久米くんめ村、南は宮平みやだいら村、北は加納かのう村。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に高二六七石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高二六一石二斗余のほかに六石二斗余の新田と三二石余の与板善根立会新田がある。「白川風土記」では戸数五七。灌漑石曾根いしぞね村内の鯖石川を堰止め、善根村・宮平村とともに用いる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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