下横町(読み)しもよこまち

日本歴史地名大系 「下横町」の解説

下横町
しもよこまち

[現在地名]倉吉市堺町さかえまち二―三丁目

江戸期の町人町南北に延びる倉吉往来の両側町で、北端枡形(鳥取口)があった。北流するたま川を挟んで西は研屋とぎや町、同町から東に延びる通りを挟んで南は上横町。当町北西端で玉川に東流する鉢屋はちや川が合流する。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)に町名がみえ、竈数二二、間数四八間余。同絵図には当町北端に枡形が描かれ、西側に番所、東側に鉄砲長屋が置かれていた。枡形を通過して階段を上ると、松並木の倉吉往来兼堤防が北に数十間延び、東西に走る往来兼堤防に直交する。


下横町
しもよこまち

[現在地名]鳥取市片原かたはら五丁目・玄好町げんこうちよう

鹿野しかの町の北西、ふくろ(旧袋川)東岸にある。南西端は下魚しもうお(蛙町)で北東へ入る道に沿った両側町。武家屋敷が混在する。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴う町割のとき、町人地四〇町のうち下構二〇町の一町として起立された。当時湯所ゆところにあった玄忠げんちゆう寺をここに移したので玄忠寺横げんちゆうじよこ町と称したが、万治三年(一六六〇)出来でき薬師火事によって玄忠寺は焼失。その後同寺が新鋳物師しんいもじ町に移ったので古玄忠寺ふるげんちゆうじとよばれた。下魚町(蛙町)から入る町であることからかえるよこ町ともよばれた。寛永一一年(一六三四)玄忠寺横町の竈数一三(因幡志)。安永七年(一七七八)の家数六四、表口間数合せて八九間余、人足役御免の屋根屋棟梁仁左衛門の自分屋敷があり、二間余を占めた。


下横町
しもよこまち

[現在地名]高松市本町ほんまち北浜町きたはまちよう

高松城外曲輪東部、上横町の北に続く町人町。中堀に西面し、東の丸御米蔵前の御太鼓おたいこ橋から東に延びる通りの北側も当町で、魚屋うおや町を北と西から囲むような町である(天保一五年城下図)。生駒氏時代屋敷割図で「いほのたな町」の西側にあった武家屋敷地が、松平頼重入部後に城東部拡張によって取払われて町屋化し、当初魚屋町と称したが(享保年間城下図)、のちに下横町となったと考えられる。魚屋町北側の部分は城東部拡張とともに造成された北浜西部で、東部は北浜材木きたはまざいもく町となった。


下横町
しもよこちよう

[現在地名]高崎市下横町

あら町南部の西隣にあり、長さ四九間五尺(高崎寿奈子)。古くから新町支配であったが明治維新後独立して一町となった。高崎城下において横町といわれるうち独立した町となったのは当町のみ。安政三年(一八五六)城下図によると下横町分は一一軒のみで、道を挟んで西側にある向雲こううん寺前の一三軒は同寺の境内として寺社方の支配に属していた。地子銭四貫四一〇文(文化年間「高崎藩町方式」西尾市立図書館蔵)。明治以後寺社はすべて町に組入れられたが、向雲寺と南から西にかけての興禅こうぜん寺の所有地、廃止された北側の牢屋・牢番小屋・牢屋付同心長屋が下横町となった。


下横町
しもよこちよう

上京区仁和寺御前通西入

町のほぼ中央を南北に天神通てんじんみち(旧西靫負小路)が、東西に仁和寺にんなじ街道が通る。町の西は紙屋かみや川。平安京の右京北辺の地で、平安中期以後は土御門つちみかど大路西靫負にしゆきえ小路の地。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「大将軍下横町」とあり、「此町の西は藪也、右大将軍下横町の西の辻北へ行西へ入所は大将軍通也」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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