並木村(読み)なみきむら

日本歴史地名大系 「並木村」の解説

並木村
なみきむら

[現在地名]佐野市並木町

村の西をはた川、東をさい川が南流する。東は堀米ほりごめ町。南の免鳥めんどり村との境を例幣使街道が東西に走る。文和三年(一三五四)六月七日の後光厳天皇綸旨写(佐々木文書)に「下野国足黒郷」とみえ佐々木導誉(道誉)に安堵されている。当郷は芦畦あしぐろ獅子舞が現在の並木町に伝わることから当村付近に比定される。同四年四月八日の足利義詮御判御教書案(同文書)によると、郷内の「釜谷村(金屋村か)」では佐野氏らの押領が行われていた。「金屋村地頭職は導誉の養父貞宗が延慶年間(一三〇八―一一)鎌倉幕府から宛行われ、元弘年間(一三三一―三四)建武政権によって安堵されたという(年欠七月六日「足利義詮下知状案」同文書)

並木村
なみきむら

[現在地名]大宮市三橋みはし

下加しもか村の北に続く村で、東半は台地、西半はかも川の沖積低地が樹枝状に入込み、南の大きい谷で側海斗そばがいと村と境し、西端は同川で上・下の内野うちの村に対する。古くは大平おおだいら村と称したという(風土記稿)。慶長一一年(一六〇六)代官頭伊奈忠次の検地があった(風土記稿)。元和三年(一六一七)五月山田十太夫(重利)は、徳川氏より当村で五〇〇石を宛行われている(記録御用所本古文書)。田園簿には双木村とあり、田五三二石余・畑二一〇石余、旗本山田・牧野の相給。元禄郷帳では枝郷上小村田かみこむらだ村高一〇九石余、中小村田村高一四八石余が分立しており当村は高三九〇石余、山田領(国立史料館本元禄郷帳)

並木村
なみきむら

[現在地名]神崎町並木

神崎本宿こうざきほんじゆくの南に位置し、東西に銚子道が通る。慶長四年(一五九九)の検地では高四三九石余が打出されており(「部冊帳」伊能家文書)、同年五月の並木之郷御縄打水帳写(並木区有文書)が残る。寛文二年(一六六二)の年貢割付状(同文書)では口米六俵余・種借利息三俵を合せ二四九俵余となっている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四五四石余で旗本城・西尾領と神宮じんぐう寺観音堂領。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では家数三六で、城領二三七石余・西尾領二〇二石余。天和二年(一六八二)南の植房うえぼう村と村境をめぐる争論が起き、境を定め絵図を作製している(並木区有文書)。天満社が鎮座

並木村
なみきむら

[現在地名]巻町並岡なみおか

県道佐渡山―巻線の通る微高地上に形成され、県道を境に西側の馬堀まぼり村に対し、東側に位置するが、北方は字十二原じゆうにはら馬堀村に接し、南は佐渡山さどやま(現吉田町)に接する。槙岡まぎおか新田とともに並岡と称される。寛永一一年(一六三四)与板藩領となり、高二一五石一斗余とある(「長岡懐旧雑記」長岡の歴史)。元禄二年(一六八九)三代康重が家督を継いだ時に枝郷の槙岡新田長岡藩領から与板藩領となっており(安永七年「村明細帳」星野家文書)、この時当村は長岡藩領に戻ったとみられ、元禄一一年の榊原式部大夫殿領分四万石拾ケ組絵図面(霜鳥家文書)では長岡藩領に区分される。

並木村
なみきむら

[現在地名]川越市並木・並木新町なみきしんまち並木西町なみきにしまち

久下戸くげど村の西、今泉いまいずみ村の北、九十ぐじゆう川左岸の低地立地。双木とも書く。検地は慶安元年(一六四八)以後数度実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高二五一石余・畑高七九石余、野銭永二〇〇文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三七七石余、反別田二八町五反余・畑一六町九反余、ほかに開発分高五八石余(反別田四町四反余・畑二町六反余)、武蔵野分高一三石余(反別畑四町三反余)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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