コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

中川紀元 なかがわ きげん

3件 の用語解説(中川紀元の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

中川紀元

洋画家。長野県生。姓は有賀、名は紀元次。はじめ彫刻を学ぶが、のち本郷洋画研究所太平洋画会研究所で洋画を学び、石井柏亭正宗得三郎にも師事する。また中村岳陵福田平八郎らと六潮会を結成し日本画も描く。正宗得三郎・熊谷守一らと二紀会を創立。次第に油絵による南画的傾向の作品へと移行していった。二紀会名誉会員。日本芸術院恩賜賞受賞。昭和47年(1792)歿、79才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中川紀元 なかがわ-きげん

1892-1972 大正-昭和時代の洋画家。
明治25年2月11日生まれ。石井柏亭(はくてい),正宗(まさむね)得三郎に師事。大正8年フランスに留学しマティスにまなぶ。10年二科賞受賞。昭和22年第二紀会を結成。39年芸術院恩賜賞。昭和47年2月9日死去。79歳。長野県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。旧姓は有賀。本名は紀元次。作品に「立てる女」「栗色の帽子」など。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中川紀元
なかがわきげん
(1892―1972)

洋画家。長野県生まれ。本名紀元次。旧姓有賀。東京美術学校彫刻科に一時在学、のち石井柏亭(はくてい)、正宗徳三郎(まさむねとくさぶろう)に師事。1919~21年(大正8~10)フランスに留学し、マチスの指導を受ける。二科会には15年の第2回展から出品し、樗牛(ちょぎゅう)賞、二科賞を受け、23年会員となる。その間に二科会の前衛的な同志とグループ・アクションを結成。第二次世界大戦後の47年(昭和22)には二紀会の創立に参加、作風もフォーブ的なものから、日本の風土感を追求する叙情性へと発展した。64年日本芸術院恩賜賞を受賞。代表作『栗色(くりいろ)の帽子』『街』(ともに1920)ほか。[小倉忠夫]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の中川紀元の言及

【明治・大正時代美術】より

…また坂本繁二郎は,東洋的な,浪漫的な心情を,光と影の色面に表現する独自の絵画世界をつくりだした。このほか二科会は,熊谷守一(もりかず)(1880‐1977),正宗得三郎(1883‐1962),中川紀元(きげん)(1892‐1972),鍋井克之(1888‐1969),小出楢重,国枝金三(1886‐1943),黒田重太郎(1887‐1970),林倭衛(しずえ)(1895‐1945),硲(はざま)伊之助(1895‐1977),関根正二,古賀春江,東郷青児(1897‐1978)ら,大正・昭和期の洋画界をリードする数多くの新人を世に出している。 二科会結成と同じ年,前年世を去った岡倉天心の一周忌を期して,日本画の横山大観,下村観山,木村武山(1876‐1942),安田靫彦,今村紫紅に洋画の小杉放庵を加えて,開店休業状態になっていた日本美術院が,洋画部も新たに設けて再興されている。…

※「中川紀元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

中川紀元の関連キーワード川口軌外黒田重太郎太田喜二郎油谷達有馬三斗枝伊藤弥太草光信成栗原信普門暁不破章

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone