中川紀元(読み)ナカガワ キゲン

20世紀日本人名事典 「中川紀元」の解説

中川 紀元
ナカガワ キゲン

大正・昭和期の洋画家



生年
明治25(1892)年2月11日

没年
昭和47(1972)年2月9日

出生地
長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)

本名
中川 紀元次

旧姓(旧名)
有賀

学歴〔年〕
諏訪中卒,東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科〔明治45年〕中退

主な受賞名〔年〕
二科展樗牛賞(第7回)〔大正9年〕,二科展二科賞(第8回)〔大正10年〕,日本芸術院賞恩賜賞〔昭和38年〕

経歴
明治45年美校彫刻科を中退後、洋画転向、本郷洋画研究所、太平洋画会研究所などに学び、石井柏亭正宗得三郎師事。大正4年第2回二科展に「清水先生の像」が初入選、8年から2年間フランスに留学、アンリ・マチスに師事。その間、二科展に出品、9年第7回展の「ロダンの家」ほか4点で樗牛賞、10年第8回展「立てる女」ほか7点を出品、二科賞を受けた。11年古賀春江ら二科の前衛的メンバーによるグループ“アクション”の結成で、新しい美術運動を推進した。12年二科会会員に推されたが、昭和8年同会を退会、無所属となり、10年に復帰した。この間、大正11年より文化学院、昭和4〜13年帝国美術学校教授として後進の指導にあたった。戦後22年旧二科の有志二紀会を結成。38年日本芸術院恩賜賞を受賞作品は他に「坐る女」「栗色帽子」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中川紀元」の意味・わかりやすい解説

中川紀元
なかがわきげん
(1892―1972)

洋画家。長野県生まれ。本名紀元次。旧姓有賀。東京美術学校彫刻科に一時在学、のち石井柏亭(はくてい)、正宗三郎(まさむねとくさぶろう)に師事。1919~21年(大正8~10)フランスに留学し、マチスの指導を受ける。二科会には15年の第2回展から出品し、樗牛(ちょぎゅう)賞、二科賞を受け、23年会員となる。その間に二科会の前衛的な同志とグループ・アクションを結成。第二次世界大戦後の47年(昭和22)には二紀会の創立に参加、作風もフォーブ的なものから、日本の風土感を追求する叙情性へと発展した。64年日本芸術院恩賜賞を受賞。代表作『栗色(くりいろ)の帽子』『街』(ともに1920)ほか。

[小倉忠夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中川紀元」の解説

中川紀元 なかがわ-きげん

1892-1972 大正-昭和時代の洋画家。
明治25年2月11日生まれ。石井柏亭(はくてい),正宗(まさむね)得三郎に師事。大正8年フランスに留学しマティスにまなぶ。10年二科賞受賞。昭和22年第二紀会を結成。39年芸術院恩賜賞。昭和47年2月9日死去。79歳。長野県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。旧姓は有賀。本名は紀元次。作品に「立てる女」「栗色の帽子」など。

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世界大百科事典(旧版)内の中川紀元の言及

【明治・大正時代美術】より

…また坂本繁二郎は,東洋的な,浪漫的な心情を,光と影の色面に表現する独自の絵画世界をつくりだした。このほか二科会は,熊谷守一(もりかず)(1880‐1977),正宗得三郎(1883‐1962),中川紀元(きげん)(1892‐1972),鍋井克之(1888‐1969),小出楢重,国枝金三(1886‐1943),黒田重太郎(1887‐1970),林倭衛(しずえ)(1895‐1945),硲(はざま)伊之助(1895‐1977),関根正二,古賀春江,東郷青児(1897‐1978)ら,大正・昭和期の洋画界をリードする数多くの新人を世に出している。 二科会結成と同じ年,前年世を去った岡倉天心の一周忌を期して,日本画の横山大観,下村観山,木村武山(1876‐1942),安田靫彦,今村紫紅に洋画の小杉放庵を加えて,開店休業状態になっていた日本美術院が,洋画部も新たに設けて再興されている。…

※「中川紀元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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