中川紀元(読み)なかがわきげん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中川紀元」の意味・わかりやすい解説

中川紀元
なかがわきげん
(1892―1972)

洋画家。長野県生まれ。本名紀元次。旧姓有賀。東京美術学校彫刻科に一時在学、のち石井柏亭(はくてい)、正宗三郎(まさむねとくさぶろう)に師事。1919~21年(大正8~10)フランスに留学し、マチスの指導を受ける。二科会には15年の第2回展から出品し、樗牛(ちょぎゅう)賞、二科賞を受け、23年会員となる。その間に二科会の前衛的な同志とグループ・アクション結成。第二次世界大戦後の47年(昭和22)には二紀会の創立に参加、作風もフォーブ的なものから、日本の風土感を追求する叙情性へと発展した。64年日本芸術院恩賜賞を受賞。代表作『栗色(くりいろ)の帽子』『街』(ともに1920)ほか。

[小倉忠夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中川紀元」の解説

中川紀元 なかがわ-きげん

1892-1972 大正-昭和時代の洋画家。
明治25年2月11日生まれ。石井柏亭(はくてい),正宗(まさむね)得三郎に師事。大正8年フランスに留学しマティスにまなぶ。10年二科賞受賞。昭和22年第二紀会を結成。39年芸術院恩賜賞。昭和47年2月9日死去。79歳。長野県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。旧姓は有賀。本名は紀元次。作品に「立てる女」「栗色の帽子」など。

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世界大百科事典(旧版)内の中川紀元の言及

【明治・大正時代美術】より

…また坂本繁二郎は,東洋的な,浪漫的な心情を,光と影の色面に表現する独自の絵画世界をつくりだした。このほか二科会は,熊谷守一(もりかず)(1880‐1977),正宗得三郎(1883‐1962),中川紀元(きげん)(1892‐1972),鍋井克之(1888‐1969),小出楢重,国枝金三(1886‐1943),黒田重太郎(1887‐1970),林倭衛(しずえ)(1895‐1945),硲(はざま)伊之助(1895‐1977),関根正二,古賀春江,東郷青児(1897‐1978)ら,大正・昭和期の洋画界をリードする数多くの新人を世に出している。 二科会結成と同じ年,前年世を去った岡倉天心の一周忌を期して,日本画の横山大観,下村観山,木村武山(1876‐1942),安田靫彦,今村紫紅に洋画の小杉放庵を加えて,開店休業状態になっていた日本美術院が,洋画部も新たに設けて再興されている。…

※「中川紀元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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