中野館跡(読み)なかのだてあと

日本歴史地名大系 「中野館跡」の解説

中野館跡
なかのだてあと

[現在地名]盛岡市茶畑一丁目

八幡はちまん山の山つづきの南端にあたる松尾まつお山の低丘陵頂部を堀で区画した中世よりの館跡とされるが、遺構は不明。慶長(一五九六―一六一五)以前のものとされる盛岡旧図(盛岡砂子)に中野館とみえる。同書によると、天正(一五七三―九二)頃に南部信直が斯波氏に対する押えとして、館に中野氏(旧高田氏)を置いたため、中野館と称されたという。

慶長年間の三戸在城館持并高知以下諸士支配面附帳(県立図書館蔵)に「一 岩手郡東中野館三千石 割菱中野吉兵衛」とみえ、天正一六年の斯波氏滅亡の功により、紫波しわ片寄かたよせ(現紫波郡紫波町)高田たかた(現同郡矢巾町)等で三千五〇〇石を知行し、片寄村に移ったという(盛岡砂子)


中野館跡
なかのだてあと

[現在地名]南郷村中野 中野

中野のほぼ中央、頃巻沢ころまきざわ川の上流左岸に突出した河岸段丘に位置する。東と南は頃巻沢川、西は丘陵地、北は沢地となる。櫛引くしひき(現八戸市)島守しまもり館とを結ぶ軍事ラインの中間地点にあたり、同ラインを補完するとともに九戸くのへ(現岩手県)方面に対する備えの拠点でもあった。起源由来は不明であるが、中野氏の代々の居館といわれる。


中野館跡
なかのやかたあと

[現在地名]鯖江市中野町

中野の字まちにあり、浅水あそうず川を西側の防御線とした字殿後とその北に接した字城門が館跡の中心である。付近には上屋敷かみやしき・下屋敷・舞台ぶたい穴蔵あなぐらなどの遺名もある。明治初年の地籍図でも遺構が残る。「越前国城蹟考」は「館跡 樋口次郎 一説中野伝右衛門トモ」として「畑之内東西七十間南北五十間計之所土居堀之形有之」と記すが、樋口次郎は木曾義仲の従臣樋口次郎兼光で、中野氏は「太平記」巻一九にみえる延元三年(一三三八)二月の鯖江宿での南北両軍の合戦の際、南朝方の一武将として記される中野藤内左衛門のことか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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