讃岐高松藩生駒氏に起こった御家騒動。1621年(元和7)生駒高俊は幼少にして父正俊の跡をついだ。後見役に外祖父にあたる伊勢津藩主藤堂高虎が命じられた。その後藩政の主導権をめぐって,国家老生駒将監と前野助左衛門・石崎若狭とが争い,前野と石崎は藤堂高虎へ讒言(ざんげん)して生駒将監を失脚させ,家老職につき藩政を専断した。それに対し,将監の子生駒帯刀を中心とした一派は,37年(寛永14)土井,藤堂,脇坂の諸家にこのことを訴え出た。幕府は,39年評定所において対決させ,両者とも切腹の処断を下そうとしたが決せず,翌年再審の結果,藩主高俊は素行の悪さと家中仕置の不行届きとを理由に讃岐17万6000石を没収され,出羽由利郡矢島1万石に移された。また,前野,石崎の父子は切腹,その一党は死罪などの厳刑に処せられたが,生駒帯刀らは軽罪で済んだ。
執筆者:藤井 譲治
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讃岐(さぬき)国(香川県)高松藩主生駒家で起こった御家(おいえ)騒動。4代藩主高俊(たかとし)は幼少で家督相続をしたため、外祖父藤堂高虎(とうどうたかとら)が後見役を務めていた。重臣前野助左衛門、石崎若狭(わかさ)は高虎に取り入り、国家老の生駒将監(しょうげん)を排し江戸家老として権力を握った。さらに、高俊の内室が幕府老中土井利勝(どいとしかつ)の娘であることを利用し、利勝の名のもとに国政をほしいままに行うに至った。これに対し、将監没後に跡を継いだ子帯刀(たてわき)は、前野、石崎の横暴を19か条にしたため1637年(寛永14)幕府に訴えた。評定所(ひょうじょうしょ)で何回かにわたる吟味の結果、生駒氏は領地没収され、高俊は出羽(でわ)国(秋田県)矢島1万石に転封された。前野、石崎は切腹、その一党は死罪に処された。これに対し帯刀は松江藩領預(あずけ)となるなど、反対派は軽い処分で事件は落着した。
[橋詰 茂]
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