日本歴史地名大系 「久々井村」の解説 久々井村くぐいむら 岡山県:岡山市旧西大寺市地区久々井村[現在地名]岡山市久々井・犬島(いぬじま)児島(こじま)湾口東の海辺にあり、東は東片岡(ひがしかたおか)村、北は西片岡村、西および南は瀬戸内海に面し、南方海上には周囲一里三一町余(備陽記)の犬島が浮ぶ。「備陽記」に「此村猟アリ」とあるように、漁業の盛んな村であった。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によればマメ・「備後」などを積んだ犬島からの船の兵庫北関への入港は、同年一二回に及んでいる。寛永備前国絵図では高一〇六石余。「備陽記」によると田畑一二町四反余(うち塩浜一町一反余)、家数四九・人数三四五、池六、小猟船より三端帆までの船二〇。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一四二石余、蔵入。 久々井村くぐいむら 岡山県:備前市久々井村[現在地名]備前市久々井浦伊部(うらいんべ)村の南にあり、東は湾が入込む海で、中央部は谷に沿った細長い平坦地。鎌倉時代の東大寺再建に際し、備前で焼かれた瓦を当地から船で搬出したと伝える。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成一〇四石余・夫米六石二斗余。寛永五年(一六二八)の検地では朱印高二三三石余のほか改出高九二石余(貞享元年「和気郡高目録」池田家文庫)。享保六年(一七二一)には田畠二五町六反余、家数七二・人数三六八、船八艘(二反帆から六反帆まで)があった(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高四〇九石余で蔵入。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by