日本歴史地名大系 「乙吉村」の解説 乙吉村おとよしむら 島根県:益田市乙吉村[現在地名]益田市乙吉町・あけぼの本町(ほんまち)・下本郷町(しもほんごうちよう)益田川と高津川が形成する下流平野中央部に位置する。地名は吉田(よしだ)村から距離を隔てていることから遠葦田(おとよしだ)と称し、遠葦と下略し、さらに乙吉と改めたという(益田町史)。雁寂(がんじやく)・江湾(こうわん)という地名があるので往古沼沢があったと思われる。東は上本郷村、南は上吉田村、西は中吉田村。江戸時代の領主の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高一九〇石余、年貢は田方一三一石余・畑方一六石余。 乙吉村おとよしむら 新潟県:長岡市乙吉村[現在地名]長岡市乙吉町東山丘陵西麓の山間に開けた集落。山沿いに南北に東山通があり、南は東片貝(ひがしかたかい)村、北は宮路(みやじ)村に通じ、西は川崎(かわさき)村に往来道が通じる。天正村名考(温古之栞)に「おとよし入」とあるのは当地であろう。文明(一四六九―八七)頃の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に飯沼遠江守分高波(たかなみ)保のなかに、同一五年の検地で被官大関太郎左衛門尉給分として「上条乙吉」、同一六年の検地で被官西方新五郎代官分の「乙吉」がみえる。 乙吉村おとよしむら 新潟県:新井市乙吉村[現在地名]新井市乙吉籠町(かごまち)村東隣の村。鮫(さめ)ヶ尾(お)城廃退後、慶長年間(一五九六―一六一五)松平忠輝の高田(たかだ)城(現上越市)築城に際し、高田から当地に移されたという。これ以前は鮫ヶ尾城の守備に当たった武士の居住地であった。勝福(しようふく)寺脇の字立の内(たてのうち)には館の土塁の一部が残る。村域内から中国竜泉(りゆうせん)窯で焼かれたと思われる茶碗・仏具が出土している。天和三年郷帳に高三一五石三斗余とある。 乙吉村おとよしむら 福岡県:三井郡北野町乙吉村[現在地名]北野町乙吉陣屋(じんや)川支流の池田(いけだ)川中流左岸に位置し、西は稲数(いなかず)村・乙丸(おとまる)村に接する。筑後川対岸に小規模な飛地がある。永正六年(一五〇九)大友義長により「乙石六丁」などが草野興秀に宛行われているが(同年正月二四日「草野興秀知行目録案」草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)、乙石は乙吉であろう。本高は五五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高八〇石・役高一九四石。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by