二又村(読み)ふたまたむら

日本歴史地名大系 「二又村」の解説

二又村
ふたまたむら

[現在地名]北川村また

平鍋ひらなべ村の北東、蛇行する奈半利なはり川の両側に集落が点在するが、南の落合おちあいでは東から小川こがわ川が流れ込む。平家の落人が久保浦くぼうら(久保裏)に居住、木の鍬で開墾したと伝え、江戸時代末期までは北川郷の村のなかでも小村であった。北川村の枝村。

天正一五年(一五八七)の北川之村地検帳では二又村として六筆二反一〇代が記され、屋敷は空屋一軒、居屋敷四軒。江戸時代の本田高は元禄郷帳に二・二石とあり、寛保郷帳によれば家数八、人数三五、牛四匹、猟銃三。


二又村
ふたまたむら

[現在地名]光町二又

香取郡に属し、同郡市野原いちのはら村の東に位置する。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳に長福ちようふく寺の所在地として「二又」とある。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳によると荒井組に属し、旗本堀領一八〇石・森領一〇〇石の相給。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三九五石余、旗本堀・岡野領と幕府領の三給。弘化二年(一八四五)関東取締出役控帳では高四六二石余で、旗本堀領二三三石余・井上領一七〇石余・岡野領五八石余となっている。


二又村
ふたまたむら

[現在地名]金沢市二又新町ふたまたしんまち

日尾ひお村・見定けんじよう村の南、犀川最上流の谷間に位置したが、昭和三七年(一九六二)着工、同四一年に完成した犀川ダムの建設に伴って集落は水没、住民は全戸他所へ移転した。日尾村などとともにいわゆる奥(山奥)四ヵ村の一。この四ヵ村は耕地が少ないため郷村帳類では高付されず、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では、小物成として当村に山役三六一匁、それに四ヵ村として地子銀一三七匁が賦課されていた(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数三五、うち一八軒は杣であった(高免付給人帳)


二又村
ふたまたむら

[現在地名]門前町二又

小山こやま村の南東みなみ川上流の傾斜地に立地。製鉄遺跡があり、かなくそ地名が残る。また鎌倉田かまくらだ庭田にわでん屋敷田やしきだ馬場田ばんばだの地名が残り、中世土豪が居住したとみられている。正保郷帳では仁又村とみえ高六一石余、田方二町五反余・畑方一町五反余。承応三年(一六五四)の村御印の高六三石余、免四ツ七歩(能登奥両郡収納帳)


二又村
ふたまたむら

[現在地名]東金市二又

田間たま村の西に位置する。二股とも記す。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高六二二石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では田間組に属し、下野烏山藩領三一〇石。元禄郷帳では高四一〇石余。貞享四年(一六八七)の書上(東金市史)では田方四一五石余・畑方九石余。元禄一五年(一七〇二)から陸奥福島藩領で、天保八年(一八三七)福島藩領郷村改帳では高四一〇石余・新田高三三石余、家数三四・人数二〇三、馬九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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