二木村(読み)ふたきむら

日本歴史地名大系 「二木村」の解説

二木村
ふたきむら

[現在地名]仙台市二木・三本塚さんぼんづか

種次たねつぐ村の北、名取川下流の左岸宮城野みやぎの海岸平野の後背湿地に立地する。字名に中谷地なかやじ深谷地ふかやじ荒谷あらや赤沼あかぬま袋谷地ふくろやじ井土堀いどぼり境堀さかいぼり潮入しおいりなどがあり、荒地・湿地・水路などに関するものが多く、村内を大学だいがく堀が東流し、東の井土浜との境は井土浦いどうら川である。西は今泉いまいずみ村。村は南部が二木、北部は三本塚に分れ、文政六年(一八二三)の二木村絵図(仙台市博物館蔵)にも二木村肝入興蔵と並んで、同二木村之内端郷三本塚肝入卯八郎の名がみえ、村方行政が分れていたことが知られる。二木の地名は寛永九年(一六三二)の長称寺記録(二木律家蔵)によると当村水神囲みずがみがこいに住する二木氏の姓から出たという。


二木村
ふたつぎむら

[現在地名]相生市矢野町二木やのちようふたつぎ

真広まひろ村の東、矢野川支流の二木川流域の平地および丘陵に立地。二次とも記す。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に「二木王子前」「二木大畠」「二木正教寺」等とみえる。同年一二月一四日の例名東方地頭分下地中分分帳案(同文書)では二木として「池谷・池谷フキノ谷」などと注記され、田七町九反余・畠四町七反余・荒田一町五反余が書上げられており、地頭方に属した。小犬丸こいぬまる(現龍野市)から高田たかた(現上郡町)へ抜ける古山陽道が通り二木宿が置かれ、矢野庄の年貢を用いて「守護所縁女性」(赤松則祐内室の側近奈々局ら)の接待もしばしば行われている(貞治二年二月「重藤名学衆方年貢等散用状」教王護国寺文書など)


二木村
ふたつぎむら

[現在地名]三郷村大字明盛めいせい 二木

あずさ川左岸、梓川扇状地の扇央にある。三郷中学校校庭、宮村三柱神社境内で土師器が出土しており、古くから開発された地域。初見は、文明八年(一四七六)下諏訪春秋両宮御造宮帳(諏訪大社上社文書)で、「二木之分、合籾廿七俵四升、此代五貫四百四十文、同人(取手大輪越前守、手執小祝与作)」とある。当村には室町時代以来その名のみえる二木氏がいる(二木家記)。同氏の居住した屋敷は堀の内である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報